「個性的な文章」ってなんだろう?作文は「通念化」との戦いだ – ぐるりみち。
「個性的な文章」とは何か?
なかなか魅力的な問いではありませんか。あるいは、「文章が個性的であるとはどういうことか?」とも問い換えても面白そうです。
一段落目が非常に示唆的です。
周囲の人とは違う「自分ならではの表現」への憧れ。それは、創作に携わる多くの人が抱いたことのある感情なんじゃないかと思う。特に「文章」に限って見れば、誰も彼もがTwitterやブログで文章を書いている昨今、「個性的な文体」への渇望は高まりつつある……のかもしれない。
見出し部分では「個性的な文章」となっているのに、段落内では「個性的な文体」となっています。ここで疑問が生じます。
文章=文体?
つまり、考えたいのはこういうことです。
- 個性的な文章とは何か?
- 文章が個性的であるとはどういうことか?
- 個性的な文章の中で、文体はどのような役割を持ちうるか?
個性的な文章
文章は、大きく二つの構成素を持ちます。内容(メッセージ・インフォメーション)と、文体(スタイル・語り口)です。
次に、個性的ですが、これは、
- 唯一無二の
- アイデンティファイ可能な<
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の二種類の意味を持つでしょう。前者は「類を見ない」というニュアンスで、後者は「この文章はあの人が書いた」と識別可能なものというニュアンスです。二つの意味が重なることもあるでしょうし、そうでないときもあるでしょう。
組み合わせと個性
次に組み合わせについて考えてみます。
「あ」という文字列は、誰がどう打っても「あ」です。もし一文字のバリエーションが100だとしたら(実際はもっと多いわけですが)、一文字のパターンは100種類しかありません。
しかし、これが二文字ならどうでしょう。「ああ」からはじまり「あ?」まで、数多くのバリエーションが生まれます。100×100。そのうち、意味の通るものだけに限定してもかなりの数が残るでしょう。でもって、文字の数が増えれば増えるほど、この組み合わせ数は増えていきます。
「ありがとうございます」は似たり寄ったりでしょうが、「ありがとうございます。その節はたいへんお世話になりました。奥様はお元気でしょうか」などと膨れあがっていけばいくほど、バリエーションは増えていきます。
単純に考えて、単語よりも文、文よりも段落、段落よりも節、節よりも……と長くなるほど、「被る」可能性は下がります。類を見ないものになりうる可能性の余地は広がります。
個性的な文章の必要性
そもそもなぜ、個性的な文章が必要なのでしょうか。
ここで新聞という存在について書いてみます。手短な文章で出来事の概要を伝える「記事」という存在。
その記事が個性的な文章で書かれていたとしらどうでしょうか。ブロック一つごとの記事が、異なる多彩な文体で構成されていたとしらら。実に読みにくいですよね。同じことはウィキペディアにも言えます。そういう場所で個性的な文体を発揮されても困るのです。
しかし、同じことは小説には言えません。Aという作家の作品において同じ文体が用いられるのは構いませんが、AもBもCもDも同じ文体で書かなければならない、みたいなルールとか風潮があったら、作家さんは困ってしまうでしょう。
メディアと文章の要件
個性的な内容を、個性的な文体で伝えることは可能です。小説がやっていることはそういうことでしょう。
非個性的な内容を、個性的な文体で伝えることも可能です。エッセイとはそのようなものかもしれません。
個性的な内容を、非個性的な文体で伝えることも、これは可能です。ある種のナラティブ・ジャーナリズムはそういう位置づけかもしれません。
非個性的な内容を、非個性的な文体で伝えることも、やっぱり可能です。閲覧性・速報性が求められるニュースでは必須でしょう。
結局のところ、その文章の機能が重要になってきます。
さいごの一片
あなたがもし、何か新しいことを言おうとしているならば、「誰も使っていない言葉」を用いるしかありません。それは「ガリバメンダソン」みたいな適当な自分語を作ることでない、というのは言うまでもないでしょう。組み合わせ、ということです。あるいは、語り口、ということです。
でもって、別に新しいことを言おうとしていないなら、つまり、この世界にすでにある言説で十分事足りていると感じているならば、別段新しい組み合わせを探す必要はありません。すべては借り物で済みます。
不足感。それが根源なのでしょう。でもって、そのパフォーマンスをなぞるのが一つの芸というわけです。