6-エッセイ

僕の家には本棚がなかった

家には本棚がありませんでした。誰も本なんて読まなかったのです。

何冊か、西村京太郎さんの作品はあったかと思いますが、それもどこかの棚にこっそり置いてあっただけで、家の中での存在感は皆無でした。

一方、今の私の部屋には大きな本棚と、床を押しつぶしそうな量の本が鎮座しています。圧倒的存在感です。

三つ子の魂百まで?

いやいやいや。

まったく本に囲まれないで成長した私が、どのようにして読書沼に引きずりこまれたのか。

もちろん、図書館です。図書館が、私にとっての本の源泉であり、沼でもありました。

本に囲まれて成長するということは、単に本が身近な存在であると感じるだけでなく、──あまりに即物的ではありますが──お金を払わなくてもそれが読める、という点が重要です。

本というのは、読んでみるまでその効用を確かめることはできないわけで、そこには常に博打的要素が入り込みます。まったくぜんぜん読書というものを体験したことがない人間に読書を勧めるのは、得体の知れないキノコを食するように勧めるのと同様の困難さがあります。

その点、家にある本棚はいくらでも好きに読めますし、気に入らなければ「返品」できます。図書館の本だって同じです。

人と本との関係は、人と人の関係と同じで相性というものがあります。「絶対的鉄板」な本があり、それさえ手に取れば人は読書に嵌り込む、なんてことはありません。だから、ある程度の数が必要です。ある程度のバリエーションが必要です。

だから、家に大きな本棚がある子供は、読書好きになりやすいのかもしれません。あるいは、地域に図書館がある子供は(そしてそこに自由に通える子供は)本好きになりやすいのかもしれません。

もちろんこれは確率の問題です。数少ない本であっても、自分にとっての一冊を見つけられることはあるでしょう。逆に、どれだけ潤沢な本棚であっても、自分のパートナーを見つけることが叶わない、ということもありそうです。しかしまあ、ある程度のラインナップがあった方が、統計的には良い結果が出るだろう、ということは予想できます。

言うまでもなく、ここでは本を好きになることが良いことである、という前提が置かれています。何かを好きになることは、基本的にはいいことです。言い換えれば、何か好きになれるものを見つけられることは、基本的に悪いことではありません。そういう環境が整っていることも、やっぱりいいことでしょう。

ともかくまあ、それは確率の問題なのです。私のように、家族が誰も本を読んでいなくても、やたらと本を読む人間はできあがります。単に、図書館に通うのを阻害しなければいいのです。

ここから教育的な話を導くつもりはありません。単に次のように思うだけです。本を読む人を増やしたければ、本を買わないとどうしても読めないという制度を強めるのではなく、むしろ本にそれほど強い興味がない人であっても本を「読める」環境を作ることが大切なのだろう、と。だから、「読みたい」という強いニーズに応えて人気作品を大量に備えるのは、はたして図書館の役割としてどうなんだろう、と想う気持ちはあるのですが、それはまあ、別の話です。

・図書館の整備
・家族内で本が共有される仕組み
・本を誰かに貸せる仕組み

経済的な数字として、これらが本の「売上げ」として計上されることはないでしょう。でも、これらがあるからこそ、生まれてきた売上げというのはきっとあります。書店で本を買う、という行為だけに注目していると、見過ごすことってあるのではないでしょうか。

人がどのようにして読書沼に引きずり混まれていくのか。そういう研究があるのかどうかはわかりませんが、デジタルに移行しつつある現代において、単にデジタルでそれを置き換えるのではなく、デジタル/ソーシャル情報環境下において同じような意味を持つものがどのようにして構築できるのかを考えていくことが、案外大切なのではないかと思います。