Scrapboxの用法

タグリストの希求とScrapbox

一時期、自作のメモツールを使っていた。「textLine」という。

カードタイプのメモツールで、縦にカードがばーっと並んでいく。で、ドラッグで自由に位置を変えられる。カードにはタイトル行と本文があり、最近のツールと同様に、本文中に#で文字列を入力すれば、それがタグになる機能も設定した。

これが極めて簡便である。やはりタグ欄に移動してからタグを設定するという行為は、カード作成中においてあまりにも認知コストが高いのだろう。Scrapboxの良さもこの辺にある。本文を書くこととタグ付けに(認知的な)スイッチング・コストが生じない。それは「書く」という行為において、地味に大切である。

というわけで、このtextLineにメモをバシバシ集めていたのだが、ちょうど100枚を越えたあたりだろうか。あるものが欲しくなった。タグリストだ。

ちょうど画面の左右が空いていたので、そこにサイドバー的に「これまで使ったタグ一覧」みたいなものが表示されればいいな、と思った。いや、そう強く感じた。たぶん、Dynalistの有料版にもある機能だ。

そのときは、特に変なことだとも思わなかった。ごく自然な要求のようにも思えた。

でも、今は不思議に思っている。なぜ、それが必要だと感じたのだろうか、と。

自分がこれまで入力したタグを一覧しておきたいという欲求は、ある観点から言えば、トップダウン的な要求である。

たぶん私は恐れていたのだろう。タグが揺れ、そして乱立することを。「情報摂取の技術」というタグがあり、「情報摂取の作法」というタグがあると、情報整理的には混乱状況である。あまり望ましいとは思われない。

textLineを使い始めた頃には感じなかったのに、カードが増えてから一覧欲求が出てきたのは、当然のように付けているタグが増えてきたからだ。それは、私の短期記憶では手に負えない量になっていた。だから、一覧が欲しかった。リストを強く希求した。

そして、そのリストの元で、「適切なタグ付け」を進めることを、無意識に求めていた。これがつまり、トップダウンということの意味である。

あるいは図書館分類方式の誘惑と言い換えてもいいだろう。

一見それは何てことのない要求だし、なんなら合理的な欲求に思える。

短期記憶で扱えないなら、記録を使えばいい。その通りだ。ただし、その扱い方がここでは問題になる。

つまり、二種類の変容があるのだ。

まず、作り始め。ここでは数種類のタグしかなく、自分の短期記憶で間違いなく扱える(という気がする)。しかし、その数が10や20に及ぶと、急に心は不安になってくる。制御できない気持ちが湧いてくる。だから、リスト化してそれを制御下におこうとする。これはつまり意識による領土化ということだ。

しかし、これも変化する。どう変化するのか。数が増えるのだ。数が増えることで、リスト化が必要になった。もちろんリストを作ったころで、数の増加が抑制されることは基本的にはない。だから、どんどん数が増えていく。それをリストは扱える。では、人間はどうか。

100や200ならいけるかもしれない。では、1000の項目が載ったタグリストを人間が扱えるだろうか。それらはどのように視覚的に表現され、どのようなネストで配置されるだろうか。情報整理の孫悟空なら、「オラ、ワクワクすっぞ」と言うかもしれないが、実際そういうタグリストはかなり強敵である。

数が多すぎて、視覚的に一覧できなくなれば、結局そこにどんなタグがあるのかを思い出す必要がある。しかし、「情報摂取の技術」と「情報摂取の作法」のどちらだったのかを覚えておけないから、リストを作ったのではなかったのか。

こうなると、そのリストは使えなくなる。そういう時点がどこかでやってくる。

危機を回避する方法はある。『アルマゲドン』のように宇宙船に乗り込んで隕石に突っ込む必要はない。たんに、「階層構造」を維持しておけばいいのだ。

「仕事」
「プライベート」
「趣味」
「共同作業」
「その他」

みたいな上位構造を作り、その下にタグを配置する。それがあまりにも増えるなら、さらに階層を作り、分類すればいい。そうすれば、どのタグがどこにあるのかを探せるし、そうすれば使えるようになる。

そう。結局そうなってしまう。

階層構造を行わないためにタグをつけていたはずなのに、そのタグを管理するために階層構造が生まれている。でもって、私たちが使う情報は、結局その階層構造に制約されてしまう。

それが嫌ならば、階層構造を作らなくても済む程度の数に留まるようにタグを調整すればいい。結局これも、タグの扱いに制約が生まれている。

つまり、である。

情報を扱うためのサポート要素としてのメタ情報もまた情報であり、私たちが情報を扱うときに生じる制約もまた、メタ情報を扱うときにも生じる、ということなのである。

ただし、タグ的なメタ情報は、増加のスピードが基本的には情報よりも緩やかなので、数の大きさがもたらす弊害みたいなものには気がつきにくい。しかし、それが情報であることは変わりないわけで、私たちが情報を扱える制約は間違いなくメタ情報にも効いてくる。

リスト化は、有限化と常にセットなのである。

情報を統制下におく必要があるならば、階層構造がそこにあってもいい、というかむしろ必要だろう。

私が気にしているのは、ほとんど無意識のレベルで私がそれを欲していたことだ。それがあるのが当たり前、みたいな感覚があった。それがない状況があり、そこでどんなことが起こるのかを想像すらしていなかった。

今Scrapboxを使っていて、すでに公開プロジェクトでも500ページを超えるものはあるが、「タグリスト」みたいなものを作りたいとはまったく感じていない。「情報摂取の」と書けば、「情報摂取の作法」がきちんと提案される安心感もあるが、それ以上に、文中に登場している「摂取」という言葉をリンクにしておけば、情報がつながってくれることが大きい。私があらかじめ設定したコンテキスト下に情報を置く必要はほとんどない(ゼロではない)。

これはきわめて自由な感覚である。盗んだバイクで走り出す必要すらない。気ままに言葉を入力し、それをリンクしていけば、意識の領土化から逃れ続けることができる。執筆、というその瞬間がやってくるまでは。

制約がうまく働くこともあるし、そうでないこともある。

しかし、多くの制約は空気のようなもので意識されない。問題があるとすれば、それだろう。意識されないと変化が起きにくいばかりか、それを懸命に拒むことすらありうる。

制約が良いのか悪いのか、という話ではない。そもそも何の制約もないところでは、人は行動することすらできない。しかし、制約がそこにある、ということを意識することは大切だ。

それによって、どう付き合えばいいのかを考え始めることができる。

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