トップダウンとボトムアップという区切りは、二項対立を好む人間の認知にはピッタリだが、はたして実体に即しているのだろうか、というのが、最近の私の疑問の一つである。
これまでたくさんの本を作ってきたが「完全なトップダウン」や「完全なボトムアップ」で終わったものなど、記憶にない。ある種の幻想というか、モデル化のための理想化なのではないかとすら疑ってしまう。
ツイートから始まる企画案
先日二つのツイートをした。
読書の些細なコツは、本を買ったその日に数ページ(なんなら数行)だけでも目を通すことである。書棚に直行させてはいけない。彼らはあまりの居心地の良さに、なかなかその場所から出てこなくなる。
— 倉下 忠憲 (@rashita2) 2018年10月27日
ちなみに、一冊の本をぶっ通しで読むのもいいし、章ごとに本をかえて自分の意識を揺さぶりながら読むのも面白い。その場合、異なる景色、異なる視角が得られる。
本の読み方は、ほんとうに自由だ。そして、一度の読みというのは儚く、再現不可能でもある。
— 倉下 忠憲 (@rashita2) 2018年10月29日
この二つめのツイートをした直後に、私の脳内には、「このテーマで何かまとめられるかもしれない」という閃きがやってきた。
たとえば、こうだ。
「まずカテゴリを立てる」アプローチ
さて、ここからどう展開していこうか。概ね二つある。
まず、カテゴリを立てることだ。
最初に一つカテゴりを立て、
次にもう一つのカテゴリを立てる。
もちろん、他にもカテゴリの立て方はある。「本棚との付き合い方」とか「並行読書」とか、そういうバージョンだってありうるだろう。が、とりあえず上のカテゴリを立てたとして、話を進める。
では、次はどうするか。二つ方向がある。一つは、今あるカテゴリにその他のどんな要素が含まれるのかを思索すること。言い換えれば「自分を揺さぶる読み方」というお題でブレストしていく。
もう一つは、他にどんなカテゴリがあるのかを模索する。言い換えれば兄弟カテゴリを探していく。
たとえば「スイスイ進む読み方」に対しては、「じっくり進む読み方」というカテゴリが出てくる。となれば「自分を揺さぶる読み方」からは「自分を固める読み方」が出てくる。これは発想技法「対比」を用いた思索だが、他にも技法はいろいろあり、いろいろな兄弟カテゴリが考案できる。で、そうして考案したカテゴリに対して、どんな要素が含まれるのかを考えていく。考えても中身が思いつかないものは、後からカテゴリを消してしまえばいい。
これが、「まずカテゴリを立てる」アプローチである。
「まず要素を集める」アプローチ
逆に、まず要素を集めるアプローチもある。
つまり、上記のようなことをまったく考えずに、ひたすらに本の読み方に関するトピックを集めていく。集め方はいろいろあるだろう。
・過去のアイデアノートを読み返す
・読書に関する書籍を読み漁る
・発想技法を使ってひとりブレストする
こうした行為により、最初の二つの項目に並列できる要素をずらーっと集めていく。そこからはKJ法の出番だ。複数の要素をグルーピングするメタ要素を考案し、そのメタ要素をグルーピングするメタメタ要素を考案する。そのようにしてカテゴリを創出していく。
これが、「まず要素を集める」アプローチである。
付きまとうトップダウン
では、二つのアプローチを振り返ってみよう。
まず「まずカテゴリを立てること」は、具体から抽象を抽出することと、抽象から具体を産出することの両方が行われている。すでにある要素から、それが所属するカテゴリを抽出する作業はボトムアップと言えるが、その兄弟カテゴリを「先に」考えるのはトップダウン的である。
で、たいていの場合、この二つが両方使われて、項目が拡充されていく。別に珍しいことではないだろう。
では、「まず要素を集めるアプローチ」はどうか。これは、素材を集めきるまでは、メタな要素を作り出していない。カテゴリがあって、その後に中身を考えるというようなトップダウン的視点はないと言える。
本当にそうだろうか。
「まず要素を集めるアプローチ」では、最初に本の読み方に関するトピックを集めていった。これはトップダウンではないのだろうか。言い換えよう。その行為と、「まずカテゴリを立てる」アプローチにおいて兄弟カテゴリを先に立ててから、そこに所属する要素を考えることの差異とは何だろうか。
Zoomして見れば、その二つに大きな差異はないように感じられる。
テーマダウン、ということ
「まず要素を集めるアプローチ」であっても、その行為を有限化するためのテーマ設定があり、その制約下の中で知的作業は行われている。
真にラディカルなボトムアップは、自分が持つあらゆる素材が並列に並べられたところから始まるはずである。そして、それらの中からたまたまグルーピングされるものが生まれ、それが複数集まったところで、さらなるメタルーピングが立ち上がっていく。そういう流れになるだろう。しかし、それすらも「自分が持つ」という制約下はある。素材の真なる連帯は解放されていない可能性が高い。
無論これは極端な話をしているし、そもそもそうした有限化がなければ人間は知的作業を行うことはできない。
が、一方で気をつけておきたいのだ。素材を集めてボトムアップしているように見えて、その実、その素材の選別においてトップダウン(テーマダウン)的制約が働いており、新しい飛躍に向けた翼がもがれてしまっている可能性を。
はたして、テーマは「本の読み方」でいいのだろうか。実はぜんぜん違うテーマにおいて、ぜんぜん違う素材たちとこれらを絡めた方が、ずっと面白くなるかもしれない。
そういうことをまったく考えられなくなるのは、やっぱりせせこましい。知的作業に有限化が必要であっても、それを崩せない壁と捉えるのは、避けたいところである。
Let’s Shake!
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