11月24日に『知的生活の設計』が発売となる。
KADOKAWA (2018-11-24)
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ここで気になるのが「知的生活」という言葉である。
『知的生活の方法』の中で、渡部昇一は次のように書いている。
この本で私が意図したことは、本を読んだり物を書いたりする時間が生活の中に大きな比重を占める人たちに、いくらかでも参考になることをのべることであった。
素直に解釈すれば、知的生活とは、本を読んだり物を書いたりする時間が多くを占める生活、ということになるだろう。では、「本を読んだり物を書いたりする」こととは一体何を意味するのだろうか。
ここで、梅棹忠夫の『知的生産の技術』を参照してみたい。梅棹は知的生産を次のように定義した。
知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ
これが知的な生産、ということである。
単に情報生産というのではなく、知的生産という言葉を用いているのは、冒頭部分、つまり「頭をはたらかせて」がこの行為の鍵を握るからだろう。というのも、頭をはたらかせなくても、情報は生み出せるからだ。乱雑に机を叩いても、絵の具をイノセントに飛び散らせても、人が情報を読み取れるものは生み出せる。もっと言えば、空に浮かぶ星々や、季節によってその形を変える雲からですから、人は情報を読み取る。
そのような広大な情報というフィールドを、「頭をはたかせる」という行為によって有限化するのが知的生産である。
知的生産の「知的」が、頭をはたかせることにあるのだとすれば、知的生活の知的もそれに近いものだと言えよう。つまり、頭をはたらかせる生活だ。たしかに、本を読んだり物を書いたりすれば頭ははたらく。では、日々ナンクロやクロスワードパズルを解く生活は、知的生活と言えるだろうか。これはいささか怪しいように思う。絶対に違うと断言するのは難しいが、かといって「そうだ!そうだ!」と力んで頷くことも難しい。
結局、「頭をはたらかせる」という行為も、その対象は広いのだ。梅棹も、知的生産と知的消費の違いの中で、その点に触れている。だからこそ、単に頭をはたらかせることだけでなく、「あたらしいことがら」と「ひとにわかるかたちで提出」という二つの有限化装置をその定義に含めているのだ。知的生活に関しても、もう少しだけ対象を狭めておきたいところである。
ここでもう一度渡部の『知的生活の方法』に立ち返る。この本は「方法」といういかにもノウハウ書を連想させるタイトルでありながら、その第一章は「自分をごまかさない精神」という一種の姿勢(attitude)を提示している。その第一章の中に、”「わからない」に耐える”という小見出しがある。
ほんとうに重症のノイローゼは医者にかかるより仕方がないが、簡単にわかった気になることを恐れる気持ちというのは、知的な生活に入る時期にはほとんど不可欠なのではないかと思う。
知的生活の前提、あるいは導入として、「簡単にわかった気になることを恐れる気持ち」が必要だと言う。その後も、この章ではたびたび「わかる」(あるいはわかった)についての言及が出てくる。どうやら、この「わかる」というのが、知的生活の鍵であるようだ。
少し長くなるが”「わかった」という実感”から引用してみよう。
「ほんとうにおもしろい」という本は、子供のときにはおとぎばなしであり、それから冒険物に進むのであろう。おとぎばなしだろうが、冒険物だろうが、そのときに「ほんとうにおもしろい」と思ったらその感じを忘れてはいけない。勉強なら「意志」でやらなければならない学科もあろう。しかし自由時間に読む小説に「意志」やら「おつき合い」を妙な工合に持ち込むと、ほんとうの感興と、おざなりの感興の区別がつかなくなり、真の意味での読書の向上がいちじるしく害されるおそれがあるからである。
どういうことだろうか。たとえば、何か古典的な作品があったとしよう。ドストエフスキーでも夏目漱石でもいい。世間から一定の評価を得ている作品だ。それを読んだとして、Xという量の感興を得たとしよう。そしてその量が十分に小さかったとする(つまり、「ほんとうにおもしろい」とは思えなかった、ということだ)。
にも関わらず、その本を「わかった」としてしまうと、悲劇が生じる。単にその本のことを過小評価するだけでない、世間で言われている「おもしろい」という評価が、自分の感興量Xと対応してしまうのである。あの心が打ち震えるような、震度10で揺さぶられるような、世界がひっくり返るような、脳内に一瞬の光として収束していくような、そんな劇的な感覚ではなく、「まあまあか」というような評価が壁になり、天井になってしまう。
読書の面白さが、感興量Xであるならば、一体そんなものを必死に求める気になるだろうか。なるはずがない。
この点から、(やや飛躍はあるだろうが)私は、知的生活というのを、「わかる」に向かおうとする生活だと定義してみたい。
それは、知識コレクターではない。もしそうであれば、ウィキペディアにアクセスできる環境があれば満足してしまうだろう。
それは、「わかる」ことを保証するものでもない。もしそうでれば、決してわからないことに向かって歩むことを誰もしなくなる。
もちろん、ここでの「わかる」は、「おもしろい」に呼応しているし、裏打ちすらしている。「わかる」は「おもしろい」し、「わかる」に向かって進むことも「おもしろい」のだ。むしろ、その歩みがあるからこそ、「わかる」の価値(あるいは渡部の言葉を借りれば「知的オルガスムス」)は大きくなっていく。
その意味で、過程は、知的生活のための手段ではない。むしろそれは目的に内包され、知的生活全体を系(システム)に仕立て上げている。
(知的生活とは何か その2 – R-styleにつづく)