前回は、知的生活を「わかる」に向かおうとする生活と定義した。
「わかる」に向かおうとする生活は、必然的に「わからない」に耐える生活でもある。あるいは、「わからない」と併走する生活であるといってもいい。
「わからない」から「わかろうとする」のであり、「わかる」まではずっと「わからない」状態でありつづける。
だからこそ、そこにはある種の知的体力が必要となる。ノイローゼになりかねない可能性も、その辺に関係しているのだろう。
ハイソなインテリはそれを理解していないことが多い。体力のない人間に向かって、マラソンを走れというのは酷な話であろうし、致命的なこともある。だからこそ、世の中には「わかりやすい」ものが溢れかえっている。
インテリはそれを怠惰だと笑う。しかしそれは、マラソンを走らない人間を怠惰だと笑うことに等しいのではないか。
日常には日常の運動がある。破綻しない程度の、十分な運動が。
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別の見方を取れば、「わかる」に向かおうとする生活は、自分を不安定な状態におくことでもある。
そもそも、本を買わずにはいられない生活というのは、その量がどうであれ、冷静に考えれば病的なものである。健全とか安定とかには程遠いように思える。
だからこそ、そこには変化の可能性がある。不安定であるからこそ、変わっていける。
分岐は、そのことをどう評価するかだ。
変わることを、いや変わりうることを是とするかどうか。
言い換えれば、それは「自分」という存在について、「わかる」に向かおうとするかどうか、とも言える。
「自分」を、その時点でわかったこととして了解してしまうか(それはもしかしたら感興量Xに対応するかもしれない)、そうでないものとして扱うか。そのどちらを、より望ましいと感じるか。
安住か、冒険か。
おそらくこの世界には両方が必要なのだろう。適切なバランスの両方が。
(知的生活とは何か その3 – R-styleにつづく)
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