前回、「わかる」に向かおうとする生活は、自分を不安定な状態におくことでもある、と書いた。この点をもう少し考えてみたい。
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なんとなく、あくまでなんとなくだが、本をたくさん読んでいる人は、リベラル的価値観に親和性を持っているような気がしていた。もっと言えば、そうあるべきだというような思い込みもあったかもしれない。だから、インテリが自由や個人の権利に無頓着だとイライラが募る。
しかし、よくよく考えてみれば、世の中には本がたくさんあり、そこでは多様な思想が語られている。それらの分布が十分にランダムなものならば(その仮定は検討の余地がありそうだが)、必ずしも一方向に思想が偏る、ということはないだろう。
ある人はリベラル的な価値観を重視し、別の人は別の価値観を重視する。そういう帰結になるはずである。よって、本をたくさん読んでいる人間だからといって、リベラル的な価値観に親和性を持つとは限らない。
と、しばらくは考えていた。
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しかし、である。
知的生活を「わかる」に向かおうとする生活だと捉えるならば、話は変わってくる。それは、安易な理解と距離をおく生き方なはずだ。つまり、
・「私」は(簡単には)わからない存在である
・「あなた」は(簡単には)わからない存在である
・「今起きている出来事」は(簡単には)わからない現象である
・「未来」は(簡単には)わからない出来事である
ということを受け入れるということだ。
「未来」がわからないなら、計画経済は放棄されるだろうし、「私」がわからないならパターナリズムは持ち得ない。「あなた」がわからないなら、その存在を「適切な場所に配置」することはできないし、それは他者を管理下に置くことを手放す、ということになる。政治的観点でも、無知のヴェールを肯定する方向に向かうだろう。
結果的にそれは、リベラル的価値感に近づいていく。
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だから、本を読む人が必ずしもリベラル寄りになるとは言えなくても、知的生活を営む人はリベラル的価値感に馴染みを持つはずである。少なくとも、それを忌み嫌ったりはしないだろう。弱点は理解しつつも、それを棄却しようとしたりはしないだろう。
多少の差異はあれ、その点については同意が発生するのではないか。そんな風に思えてくる。
(知的生活とは何か その4 – R-styleにつづく)
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