物書き生活と道具箱

知的生活とは何か その4

前回は、知的生活を「わかる」に向かおうとする生活だと捉えるならば、そこでリベラル的価値感が育まれるのではないか、ということを書いた。

安易に「わかる」ことから距離をおき、「わからないもの」として扱うことで、強制や独断への希求が薄れていく。

ポイントは、「わからないもの」として扱うからいって、それを「わからないまま」に放置してはおかない、ということだ。なにせ、知的生活は「わかる」に向かおうとする生活なのである。

「わからない」→「わかる」

この右向きの矢印こそが、知的生活のベクトルであろう。つまり、手を伸ばすことが大切になる。

「わかった」と思い込んで手中におさめたつもりになるでもなく、「わからない」といって投げ捨てるでもなく、「わからない」に対して手を伸ばそうとすること。そのために、対話は欠かせない。

中身の見えない黒い箱があるとして、「あの箱には何も入っていない」と断ずるのは早計だろう。自分が見えないからといって、そこに何もないことになるわけではない。とすれば、コンコンと叩いてみるだとか、ちょっと持ち上げて揺さぶってみるだとか、赤外線を当ててみるだとか、何かしらこちらから手を伸ばしてみる必要があるだろう。なんなら、問いかけたっていい。中にコビトがいれば返事してくれるかもしれない。

注意しなければいけないのは、「あの箱には何も入っていない」と思っていると、コンコンと叩いたときの音が、あるいは揺さぶってみたときの感触が、あたかも存在しないかのように思えてしまう人間の先入観である。

人間は現実をそのまま知覚しているのではなく、解釈して認知へと変換しているので、「〜〜なはずだ」という思いが強いと、それに合わせて現実を変えてしまうことがある。証拠を捨て去る刑事みたいに。

もう一つ言えば、コビトの声は小さすぎて最初は聞こえにくいかもしれないし、あなたとは違う言語で話しているかもしれない。つまり、「わかる」に向かう途中にも、たくさんの「わからない」は存在している。

結局それは、とっても面倒なことなのだ。この点は、どれだけ力説しても足りない。

それは、面倒なことなのだ。はじめから、そういうものなのだ。効率化を目指した途端に、壊れてしまうようなそんな要素が織りなしている。

対話は面倒で、うまくいくかどうかもわからない。だったら、そんなことしなければいいじゃないか、となった途端に、「わかる」に向かうベクトルは失われる。もうそこでは、「わかった」世界が広がっている。手が伸ばされることは決してない。

怖いのは、その「わからない」ものを、「わかるように」変換してしまう技法だ。あるいはそれを至上とする考え方である。

分子一つの振る舞いは予測できない。しかし、それが大量に集まれば計算式が活躍する。

個人ではなく、集団に。単一のデータではなく、ビッグデータに。そのように扱う手つきを変更すれば、「わかろう」とする努力は必要なくなる。あのもどかしさも手間も必要なくなる。

そして、観測者の不在が個人の不在を引き起こす。

知的生活とは何か その5 – R-styleにつづく)

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