4-僕らの生存戦略

10 years ago/after

『知的生活の設計』の副題に、「10年後の自分」いうフレーズが出てくる。

知的生活の設計―――「10年後の自分」を支える83の戦略
堀 正岳
KADOKAWA (2018-11-24)
売り上げランキング: 697

今の自分という中心点があり、そこからはるか先に延ばされた線の上に10年後の自分は存在する。

そのように考えると、当然のように「10年前の自分」というものも気に掛かる。いったい、10年前の自分は何をしていただろうか。あるいは、この10年間で自分はどんな道を歩き、ここまで辿り着いたのだろうか。

10年は、3650日と少しだ。とても長い時間のように感じられるし、実際その通りだろう。

この10年でたくさんの本を読んできたし、たくさんの記事を書いてきた。今ではもう、このブログには5300を超える記事がある。

冷静に考えれば、突飛な数字だと言えるかもしれない。偉業というよりも、異常という気すらしてくる。でも、やってきたのはただ毎日一記事書くことだけだった。簡単ではないが、かといって苦役でもない。そういうバランス。

もちろん、簡単なことでも、それを毎日ひたすら続けることにはある種の狂気が宿りえるが、かといって社会的な害悪が発生しているわけでもないので、誰にも迷惑をかけていないだろう(そうであると信じたい)。無害な狂気である。

ともかく、一つ言えるのは、私が「毎日一記事を書く」、ということをしてこなかったら、このブログにそれほどの記事が集まることはなかった。代わりに私は、毎日1時間の自由な時間を得たことだろう。それを何に使っていたのかはわからないが、何かに使っていたら、そこでもまた10年分の蓄積が生まれていたかもしれない(し、そうではないかもしれない)。

結局のところ、人生は行動である。何をするか、ということの積み重ねが人生を形作っている。

だから、無駄なことなどせず鋭意取り組みなさい、と言いたいわけではない。それは一種の脅しであり、言ってみれば悪魔との契約だ。考えは硬直し、遊びを受け入れる余地がなくなる。息苦しいことこの上ない。自らがそれを望むのでないかぎり、わざわざ人生をそんな色に染め上げる必要はない。

しかし、である。

どのような視点を取ろうとも、10年後の自分は、今の自分がやっていることの延長線上にしか存在しえない。非常に残念ながら、突然溢れんばかりの才能が開花することもなければ、ソロモンの鍵を手にすることもない。

何かをする/何かをしない

という一つひとつの選択が、時間軸に点を打っていく。

たぶんそのことは忘れてはいけないし、「自分は何に時間を使っているのか」をたまにでも確認するすべは持っておいた方がいい。なぜか。それは、世の中にあるさまざまな誘惑は、「自分を選択してくれ」と強い力を持って迫ってくるからだ。だから、「気がついたら、あっという間に」ということが起こりうる。何も選んでいないのに、何かを選んだことにさせられてしまうのだ。

それはつまらないではないか。

かといってこの話は、「自分の望む人生を手に入れよう」という話でもない。そもそも、そんなことは不可能だし、仮に可能だとしても、実に味気ない結果が待っているだけだろう。

自己の愚かさを痛感している人間ほど、自らの望みの矮小さに気がついているはずである。だから窓を開け、風を取り込まなくてはならない。「自らの意志」とは別のしかたで、点を打っていかなければならない。

つまり、だ。

方向性を決めない限り、私たちの行動はバラバラに拡散してしまう。かといって、目的地を固定してしまうと、それ以外の場所が目に入らなくなる。ようは、このバランスなのだ。

結局のところ、大切なのは幸福を最大化することではなく、納得できることだろう。世の中の理不尽さを織り込んだ納得。

つまり、10年後の自分が納得できるような行動を、今日この日に、少しでもできているかどうか。置かれている環境を嘆くまえに、「じゃあ、今できることは何か」を考えられているかどうか。

もう一度書くが、仮にそれをしたからといって幸福が得られる確証はない。単に、納得しやすいかどうか、というだけの話である。