Scrapboxを使っていて思います。断片とはいかに楽なのか、完成させないというのはいかに居心地がよいのか。
だからこそ、逆に思うのです。たとえ短い記事であっても、一つの記事を書き上げるということがいかに苦労を要するのか、と。
23-seconds blog: 11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2018
ブログで文章を書き続ける人への、敬意があります。変わりながら、変わらないことを続ける人への、感動があります。
たしかにそうです。そこには何かリスペクトフルな対象があります。たとえ一つの記事に掛ける手間が小さくても、続ければ積分されます。どうしようもなく面積を描いてしまうのです。
だからそう、いくつかのブログをご紹介しましょう。
鷹の爪団の吉田くんはなぜいつもおこったような顔をしているのか
simple and bright – from the space of K.Tanabe
こういうブログたちのフィードで構成されるRSSリーダーは、新聞のようでありながら、それとはぜんぜん異なった顔を見せてくれます。18世紀なんかには絶対に手に入らなかったメディアです。
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バザール。
バザール・メディア。
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いつからか、世間一般でのブログの意味付けが変化してしまったわけですが、そんなことはお構いなしに更新され続けているブログがあります。更新頻度が高かろうが、低かろうが、書き手が書こうという意欲を絶やしていないブログがあります。
それはもう、奇跡みたいなものでしょう。
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書くことには一定のしんどさが伴うので、誰も彼もに「書きなさい」と言うことはできません。だからこそ、書かれているブログには、棄損しがたい価値があります。しかも、そのブログに実際的価値が少ないほど、その価値は膨れあがります。
シーナ・アイエンガーが『選択の科学』のなかでこう書いています。
選択したものは、果たす実用的機能が少ないほど、個性を物語る。
合理の終着点はただ一つです。不-合理は、無限の点を持ち得ます。機能的ブログの金太郎飴化は必然なのです。
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堀正岳さんは『知的生活の設計』の中で、次のような警句を述べました。
その先にあるのは、広告会社の思惑に最適化しただけの、荒廃した知的生活の荒れ地です。
上と同じことです。遊びがなくなり、発見がなくなり、研究がなくなります。
はじめから、そうはじめからそのつもりでやっているならば何も問題はありません。誰かがとやかくいうことではないでしょう。
でも、現実的にはそこには重力があります。
だから、意図しようがしまいが、そのままの形で続いているというのは、それだけで経緯にあたいします。少なくとも、私はそこに価値を見出します。
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これは何かが悪くて、何かが良い、という単純な話ではありません。変化はしてもいいし、していなくてもいい。
そうではなく、そこに意志が乗っているかどうかです。あるいは、他者の意志を介入させないかどうか、という話です。
それが「私のブログ」か、そうでないかを分ける、ギリギリの境界線なるのでしょう。
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