『知的生活の方法』に以下のような記述がある。
若いうちは金がないから、図書館を上手に使うことは重要な技術である。しかし収入が少ないら少ないなりに、自分の周囲を、身銭を切った本で徐々に取り囲むように心がけてゆくことは、知的生活者の第一歩である。
人はどうでもいいことについて、その判断能力を向上させない。「いくらでも、自由に」という状況では、自分に必要なものを見分けるためのパターン認識は育たない。切実性がないからだ。
それに、じっくり堪能することがなければ、自分にとって「何がよくて、何が悪いのか」という線引きも浮かんでこない。一体これでどうやって「目利き」の能力が磨けるというのだろうか。
そして時々、なんということなしにあちこちの本を引き抜いて、パラパラと数ページ読むのだ。気まぐれに、また無目的に。そういう瞬間にその本の価値がピーンとわかるときがある。そういう体験の積み重ねが続くと、一種の本能みたいなものが発達してきて、古本屋に入っても、掘り出し物が見つかるようになる。
これは本当である。自分にとって良い本どうかを、かなりの精度で見極められるようになる。そうすれば、星一つを付けざるを得ないような本をわざわざ手に取ることもない。年を重ねれば忙しくなるが、そういうときにその目利き力は活きてくる。
そして、そうした能力が磨かれるほど、本を読むことが楽しく、また面白くなっていく。これも本当のことである。というか、両者の能力はコインの裏表のようなものだ。何かがわかることと、何かが楽しめることは、同じ情報ネットワークを背景に持つ。
もちろん、一人前の本読み(というものがあるとして)を目指していないなら、こんなこと気にしなくていい。気ままに、自由に、お手軽にコンテンツに触れればいい。ただ、人生のすべてをそれで満たすのは、少しもったいないかもしれないな、とは感じる。
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