2-社会情報論

情報化社会の歩き方

アルゴリズムになれない私たち

少し、足跡だけ残しておく。

社会の変化

社会は変化している。

工業化された社会があり、それが情報化された社会に向かっている。あるいは、もうそうなっている。しばらくのちに、さらにその先の社会(ポスト情報化社会)に向かうだろうが、まだしばらくはこの段階に留まるだろう。

だから、私たちは情報化された社会で生きる術を身につけなければいけない。特に、変化の遅い日本では、まだ新しい社会に向けての文化資本を提供する制度が十分には備わっていない。よって、ある程度は自らで準備しなければならない。

情報化社会の特徴

前社会と比較すると、情報化社会は以下のような特徴を持つ。

・速度と量の増加とそれに伴う質の低下
・ブームや人気企業といった波の変化の速さと多様さ
・フラットさ(権威の剥奪と自由なつながり)
・デジタル(アナログ情報がデジタル情報に置き換わる)

高速で情報がやりとりされるようになり、同時にそれは一人の人間が受け取る情報の量が飛躍的に上昇することを意味する。それを補佐するテクノロジーもあるが、そのテクノロジーについて習熟しなければならない(新しい情報を摂取しなければならない)という状況は変わらない。

また、速度に合わせるように情報発信の形態がシフトしているので、平均的な質に関しては低下する傾向がある。ジャンク・インフォーメーションが増える。結果、情報を判別する技能と、自らに合わせて情報環境を構築する力が求められる。

上記から、物事の変化の速度も速まる。来年何がブームになるのかはわからず、人気であったものがすぐに失墜することも珍しくなくなる。社会における不安定さが増す。よって、安定的なものを自らで構築するか、あるいは不安定な状況でもなんとかやっていける能力(サーフィング)が必要となる。

さらに、コミュニケーションの広がりから、人が所属するクラスタが多様化し、それぞれにおけるヒット(ニッチ・ヒット)が生まれる。だからこそ、ブームも読みにくい。一つのクラスタ内でうまくやっていく技法よりも、むしろクラスタを超える(あるいは接続する)技法が、より価値を持つかもしれない。

クラスタ(共同体と読み替えてもいい)の絶対性が薄れることで、人々の関係がフラットになっていく。さらに、人は多重のクラスタに属することになる。思いも寄らぬ人たちとチームを組むこともできるし、見ず知らずの人間に仕事を依頼することもできる。そこでは、「異文化交流」の技法が必要となる。会社の椅子にふんぞり返って、部下に命令しているだけの人間は、「交易」すら行えない。

そして、出発点とも言えるが、多くの情報がデジタルに置き換えられていく。デジタルだからこそ、大量に高速に扱えるのだし、物理的な制約を飛び越えてつながることができる(チャット、クラウド、エトセトラ)。そこからデジタル情報信仰が生まれる。デジタル情報はアナログ情報の上位互換なのだ、という信仰だ。

しかし、その信仰が見逃しているものはないのかという検討は必要だろう。もしかしたら、それは、ポスト情報化社会において、私たち人間の価値を担保するものになるかもしれない。

立ち向かうスキルとスタイル

古式豊かな二つの概念を拝借する。知的生産の技術と知的生活。

知的生産の技術は、情報を扱う技術である。その技術のコアには以下のようなものが含まれる。

・目利き
・処理/加工
・調理/盛りつけ
・出荷

これらの技能は、情報化社会において極めて有効に機能する。実直に言えば、情報化社会で「うまく生きていく」ために必要である。

しかし、それは技術でしかない。何を指向するのかまでは限定されていない。そこで知的生活である。

知的生活は、本を読み、考える生活だ。「わかる」に向かおうとする生活だ。自らの足で未知のフィールドに足を踏み入れていく生活だ。それは、趣味を掘り下げる生活でり、大学や研究所外で行われる研究生活でもある。ネットはそうした活動の裾野を広げ、ブログはその受け皿となった。

では、その生活はなぜ求められるのだろうか。自分なりの生活がそこにあるからだ、とここでは答えておきたい。言い換えれば「私は誰なのか?」という問いに向き合う生活がそこにあるからだ。

人はなぜ本を読み、考えるのか。そこに知的好奇心が関係していることは間違いなく、それこそが個を特定するものなのだと、タチコマを観察した草薙素子は推論した。おそらくはその通りなのだろう。

ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で示した危惧のように、もしかしたら私たちはアルゴリズムなのかもしれない。しかし、たとえ私たちがアルゴリズムだとしても、すべてが均一だと断じるのは早計だろう。あるアルゴリズムは、まだつなげられていないノードを接続するかもしれない。新しい点をおくかもしれない。もしそうだとしたら、それは「私」であろう(≒アイデンティファイ可能であろう)。

それこそが、ポスト情報化社会における唯一の希望となるかもしれない。

(何かの「はじめに」のつもりで書きました)