わりと身も蓋もない話

トレードオフより悪いもの

”何かを手にするためには、何かを失う必要がある。”

「鋼の錬金術師」でも有名な等価交換ですね。代償なしに何かを手にしようとすれば、目に見えない代償を背負いこむだけです。そこから逃れることはできません。

しかし、です。「何かを手にするためには、何かを失う必要がある」のだとしても、世の中には「何かを失ったら、何かが手にできる」ことが確約されていないものがたくさんあります。

文章がうまくなるには、たくさん本を読む必要があるでしょうし、自分でたくさん文章を書く必要があるでしょう。しかし、たくさん本を読んで、たくさん文章を書いたからといって、必ず文章がうまくなるわけではありません。少なくとも、そういう事柄に対する「三年保証」みたいなものはありません。

その意味で、これはトレードオフよりも悪いものです。それはベットであり、リスクであり、ギャンブルに等しいものです。合理の領域内では、まず踏み出せない一歩でしょう。

でもまあ、生きることなんて、基本的にギャンブルみたいなものです。意識からは死のタイミングが見えないことも、遺伝子の生存戦略も、結局は確率論の領域です。(広い意味での)「私」が生きることは、少なからずギャンブル性を秘めています。

だからまあ、あとはどのようにチップを掛けるかです。少数ずつ広範囲にベットしてもいいでしょうし、えいやと一つのマスに大量ベットしてもよいでしょう。そこにはるのは、意志であり、価値観であって、「勝利のための完全方程式」などではありません。そもそも、そのベッドに参加していること自体で、すでに負けは確定しているのです。勝者は常に胴元。有名なセオリーです。

よって、残るのは納得感です。得ようが失おうが、「まあ、しゃーないな。よーやった、よーやった」と思えるかどうか。気分良くルーレット台を後に出来るかどうか。そこだけが、(狭い意味での)「私」の領域内でどうこうできる話でしょう。

科学が勝利し、個人主義が強まったことで、「私」に求められる合理性は日々高まっています。でもそれは、別に真理でも物理法則でもありません。単に、文化的な流れなだけです。だからまあ、あまり強く固執しなくてもよいでしょう。

というか、さんざん合理や理性についての語りを聞かされてきたので、私はもうお腹いっぱいな気分です。だから、別の語りを始めていきましょう。この世界にノイズを取り戻すのです。

コメントを残す