門の外には伝わらない価値

時間がかかるからこそ敬遠される

継続こそ教養なのか」の続き。

小冊子の「ごあいさつ」には、「継続」に込められた意味が明らかにされている。

一つめは、教養書を「継続的」読んで欲しい、ということ。なぜなら、教養書は非日常的情報摂取であり、慣れが必要だからというのだが、まさにそれはそうだろう。どれだけ易しい文体で書かれていても、その思索の進め方は「日常的」ではない。だから慣れが必要である。なので、最初手にとってちんぷんかんぷんだった本でも、何冊か読んだ後でもう一度手にすると、意外なほどにスルスル読めることが起こる。言い換えば、継続的な教養書の読書は、(そういうものがあるとすれば)教養の基礎力の向上につながるのだろう。

二つめは、教養書が「継続して」読まれてきた点を指摘する。言い換えれば、その古典性を特徴にあげる。”時代を超えた普遍的な知恵が格納されているのではないでしょうか”

最後の三つめは、蓄積である。”教養もまた一日にしてなりません”とある。この辺の話は、『知的生活の設計』とも通じるであろう。

さて、それぞれのポイントはたしかにその通りであろう。少なくとも、ある程度教養書(と呼ばれる本たち)を読んでいる人間からすれば違和感ない話である。では、門の外はどうだろうか。ノンカスタマーにこの話はどれだけ説得力があるだろうか。

教養書を継続的に読む? これほどメディアがあり、しかも視角優位のメディアがあるのに、難解な教養書を苦労して読む? 文字モノでも「わかりやすく」解説してくれた本があるのに、わざわざお堅い本(そしてときに分量のわりに高価な本)を手に取る? なぜそんなことをしなければならないのか。

教養書が「継続して」読まれてきた? たしかに人類の歴史は連綿と続いているし、2000年前の本が役立つことはる。しかし、人類の進歩の速度はここ100年で異常なのだ。『ホモ・デウス』が指摘するように、これまでは人類という種そのものには変化はなかったのだが、ここからの歩みはそれが変わるかもしれない。そこには間違いなく断絶がある。旧人類の「教養」は、新人類の「教養」と合致するのかどうか、誰にもわからない。

ちなみにこれは、古い本を読んだら新しい技術についていけない、といった低次の話ではない。「人間」が変わり、「人間観」が変わってしまうような世界がやってきたときに、旧来の教養がどれだけ役立つのか、という話である。

教養は一日にしてならず? たしかにそうだろう。しかし現代では成果が求められる。短期的で、即物的な結果を出さなければ、食い扶持すら怪しくなる。そんな中で、「じっくり教養」を育てていく余裕がどこにあるのか? それとも教養とは、富裕層だけが手にできる限定的なスキルなのだろうか。

私はこの小冊子を読みながら、上記のような反論が強く思い浮かんだ。少なくともこの物言いでは、門の外の人に、これらの本を読む価値を肯定してもらえないだろうと感じた。

改めて言うまでもないが、私自身はこれらの本を読むことを面白いと思っているし、価値も感じている。否定をしたいわけではない。むしろ、強く肯定したい。しかし、ただ内輪で肯定しているだけでは、徐々に衰退していくだけではないか、という疑念も消えない。

少なくとも上の三つのような売り文句で、これらの本に興味を持ってもらうのは難しいように思う。むしろ、こうした文脈付けが、そうした層をより遠ざける可能性すらある。

だから何か違った言葉が必要なのだろう。

唯一の救いは、これらの本が教養の取得とはぜんぜん関係なく面白い、ということだ。それを面白がれる力が教養なんですよ、と返されたら言葉もなくなってしまうが、それでも「勉強して、身につけるための、教材」ではない、という点ははるかに希望がある。

しかるべき機会があれば、人はまるで本に呼ばれるかのようにそれを手に取り、貪るように読み込んでいく。それを阻害せず、むしろ促進させる何かがあればいいのだから。

タグ:

コメントを残す