だいたいの執筆にはメモが使われると思います。
そのメモに何が書かれるかは人それぞれでしょうが、何一つ記録装置を使わずに一冊の本を書き上げるのは稀でしょう。
本は、メモによって構成されます。
しかしそのメモは、本のようには書けません。
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本のように書くとは?
簡単に言えば、カテゴライズし、順序を決める、ということです。さらに切り詰めれば、位置づける、ということです。
メモは小さな断片であり、小さな断片はいつだって多義的です。いや、潜在的と言うべきでしょうか。
その断片は、多くのものに変身する可能性を持ち、多くのものに所属する可能性を持ちます。
いわば、その時点では何も決まっていないのです。
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本のようにメモを書く、とは、
・「Hogehoge用のメモ」
・「Bagebage用のメモ」
・「Chagechage用のメモ」
などとあらかじめカテゴリ(≒フォルダ)を決めて、そこにメモを適切に位置づける、という行為を指します。
しかし、そんなことはできません。メモは、多義的であるが故に複数のカテゴリに存在する可能性を持ちますし、また、全体における適切な順番は、全体が決まっていないと決定しようがないので、それを決めるのは、その時点では不可能なのです。
さらに言えば、小さな断片的メモが、新しいカテゴリを発生させることすらあります。
よって、その保存形態におけるカテゴリは、重複可能であり、また可塑的であることが要件となります。
静的・固定的な「本」のように、扱うことはできません。
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先に箱を用意しておき、その箱の中に、適切なメモを、適切な順番で入れる、という発想は機能しません。ごく短い時間なら機能しても、長期的な運用ではどこかで破綻します。
一昔前の、「ノート一冊でまとめる」という方法の有効性は、この点が影響しています。少なくとも、そのやり方であれば、先に複数の箱を作って、その中に適切に入れる、という発想からは距離を置けるでしょう。
しかしそれでも、当人の中に、箱の幻想が根付いている限りは、状況はかわりません。結局それらを後で「整理」したくなるのですから。
しかし、どれだけやってもその「整理」は完璧には至りません。完璧に至るためには、自分の発想・認知の機構を、その時点で完全に停止させる必要があります。
これ以上、何一つ新しい情報が発生しないということが確約されるならば、整理は頂きにたどり着けます。作家が没した後ならば、全集を編纂できるのです。
しかし、今考えているのは、今生きている人間の、生きている情報の整理です。その時点でもう、完璧な整理にはたどり着けません。本は大きな文脈において情報を固定するものであり、メモはそうではないのです。
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完璧な整理にはたどり着けない、ということを受け入れるならば、多少散らかっていても、落ち着かない感じがしても、それはそれでしゃーないなと受け入れることになります。もともとそれは無理ゲーなのです。
一方で、その不完全性を受け入れるならば、箱をうまく利用することもできます。それを固定のものではなく、半固定のものだと捉えるならば、つまり状況に合わせて箱を自由に作りかえていくならば、箱だってそう悪いものではありません。
※もちろん、そうした状態ですら不完全であるという理解は必要です。
状況によって、ケースバイケースで、十人十色に、箱との付き合い方はありうるでしょう。
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メモは、自由です。じゃじゃ馬のように暴れ回ります。
麻酔を打って眠らせる手もあるでしょうが、ある程度の柵の中で、自由に走り回らせてもよいでしょう。
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