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時、時間、現在。

時間という概念がある。

たとえば、今現代人は3次元を認識することができる。
そしてそれ以上の次元の存在も知ることができる。

幾人かの学者は4次元を構成する要素は、縦、横、高さ、そして時間だと主張する人間もいる。

人間のもつ感覚器官では時間というものを認識することはできない。
脳は時間を理解することができるが、「時間そのもの」を認識することはできない。

脳は常に「現在」だけを認識する。過去は記憶であり、未来は想像の産物である。
常に「現在」だけの概念というのは、そもそも時間ですらない。大きな流れを感じることができて、はじめて時というものを認識することができる。

「時間」というものは人間が作り上げたひとつの仮説である。
SFの世界では時間を逆流するというような話が良く出てくる。しかし、それは概念の上でだけ可能な話で、物理的には不可能な話だ。

それはタイムマシンなんて作れないという話ではない。それが現実世界で作られたとしたらその機能が時間の逆流でない、ということである。

時をひとつの流れとして捉えた場合、その流れを逆流することができるような気がしてくる。しかし、それはあくまでたとえである。

実際に時は流れてはいない。現在が次々とその形を変えているに過ぎない。それを人間が便器的に認識しやすい形にしたものが「時」である。

この概念は非常に便利であり、また力強い理論性を持つように思われる。

が、突き詰めていけば「時」というのは認識の問題にすぎないということに気がつく。

もちろん、「過去」や「未来」という概念が無意味であるといいたいのではない。人間が生きていくうえで、その概念は非常に有効に働く。極論してしまえば、それ無しでは人間らしく生きていくのはかなり難しいといってしまってもいいかもしれない。

現代では時というものがごく当たり前に使われているような気がする。それは一種の道具であり、普遍的に与えられているような錯覚をもっている。

その上で、時間の使い方がすごく薄っぺらくなってきているような気がする。昨日の一日、今日の一日、明日の一日、それらがどれも同じで可逆的な存在であるという認識。単調さを受け入れ、自ら単調さを作り出す行為。

しかし、よくよく考えてみれば、昨日という日も、明日という日も存在しない。それらは記憶であり想像である。

今日という日があり、また次の今日という日がやってくる。それらはまったく別のものでありながら、自分という軸でかろうじてつながりを持っている。

一年という区切りも、一日も一時間ですら人間が作り出したものだ。そこには機能はあるが、本来の意味は何一つない。しかし、人間はそれに縛られる。

人間は自ら作り出したものに縛られるのが好きなようだ。

そもそも「自分」という認識すら自分が作り出したものだ。これについては、また別記して考えてみたい。

話を戻す。時間というものは人間が作り出したものである。だから一日という時間の概念には何も意味がない。
意味を持たすことができるのは、各自の意識だけである。
意識もなく、一日を過ごした人は、その日をパスしたことになる。知らないうちにパスを繰り返している人が多くなってきているような気がする。
人生という山札は無限ではない。いつまでも次のカードを引き続けられるわけではない。終りが近づいたことを知ったときに、全てをひっくり返してくれるようなジョーカーは存在しない。
人間にできることは、淡々とカードを引いて、なんとか手札に良いカードを残す努力だけである。

 祇園精舎の鐘の声
 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色
 盛者必衰の理をあらわす
 おごれる人も久しからず
 ただ春の世の夢のごとし
 たけき者も遂には滅びぬ
 偏に風の前の塵に同じ

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