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認識と「仮想現実」

「タイム・コマンド」という映画をみた。1995年の映画だ。人間をコンピュータにつないで、現実とかわりないバーチャルな世界を体感できるというゲームの中で実際の命をかけて戦うというようなストーリーだった。

なんとはなしに「マトリックス」を思い出させる。

コンピュータが性能を増してきて、仮想的な空間を作り出すことができるようになり、人間の感覚そのものにフィードバックできるようなシステムが作り上げられたならば、それはSFではなくなる。

「マトリックス」においては、その上に「ビック・ブラザー」的な要素も入っている。

脳というのは、感覚器官から入ってきた情報を処理する装置である。そしてその情報というのは一種の電気信号である。
もし、ある種の情報をつたえるのに、どういう電気信号が使われているかを明確に解析し、再構築できるならば、脳に線を直につないで、コンピュータを「感覚器官」とすることができる。

そういった世界では、現実という言葉の意味がひどく曖昧になってくる。

現代においてもその言葉の意味はだんだんと曖昧さを増してきていると思う。

現実という言葉と事実という言葉の意味は違う。
またそれぞれの個人によっても現実というものは違う。

現実というのは認識から生まれる。
何かを認識するというのは、それが現実であると認めることと言い換えてもいい。

科学が発達し、確認できることが増えてくると現実もそのありようを変化させる。

もし、科学が発達しなければ、地球の周りを太陽が回り、蝙蝠は意志伝達の手段を持たず、雷は神の怒りであるというのが「現実」でありうる。

科学の発達は「現実」の姿を変える、それは確かだ。
しかし、それを突き詰めていってしまうと、科学=現実になってしまう。それは唯物論である。
形而上的なものは一切認めないということになってしまう。

「現実」のありようは人それぞれだといった。唯物論的な「現実」のありようもそれはそれで正しいのかもしれない。
が、唯一われわれの「意識」という存在だけは否定しようがない。これは自分がとりあえず認識できる形而上てきなもののひとつである。

科学の世界でわれわれの「意識」を完全に分析することはできない。心理学は心理の動きを科学するもので、その成り立ちまでは説明できない。

認識が現実を作るという仮定からスタートする場合、その認識の発端は自分の意識からである。
自分が何かを信じているという、その心の動きそのものが認識の発端である。

そういう風に考えると、現実と「仮想現実」の線引きは難しくなってくる。
つまり「仮想現実」も現実の一部でありうるのだ。

「仮想現実」の世界は、オンラインゲームであろうと、バーチャルモールであろうと、実在はしない。
が、存在はしている。

今80歳くらいの人間にとってはそれらは現実ではないかもしれないが、20歳前後の人間にとってそれは手に触れられない現実として存在する。

それが、ごく当たり前に普及していくと思う。

それが、仮想的な世界であれ社会的に実在する世界であれ、個人が体験する時間というものは同じである。
「仮想現実」の世界で「3時間」使えば、現実の世界でも3時間使われているわけだ。もちろん時間の流れ方は違うだろう。
が、前にも述べたが時間なんてものは脳が作り出したものでしかない。尺度にほとんど意味はない。

そういう意味で時間というのは資源である。
結局のところ人間は目に見えないタイムリミットを背負って生きているのだから。それを買うことはできない。
誰かに貰うこともできない。

「仮想現実」の世界が薄っぺらく広がっていく世界の中で重要なのは意味を持つ時間の使い方だと思う。
結局のところ何をしてても、それが意味を持つかどうかということが、重要になってくる。

自分にプラスになること、ほかの誰かのプラスになること、そういうことは意味がある。意味がないことはその逆のことである。

極論、暴論になってしまうが、結局のところわれわれは脳というCPUが演算した「現実」の中に生きているのだ。
ゆえにこの「現実」は唯一固定的なものではない。
意識ひとつで、どのような方向にも動きうるものだ。

自戒を含めて、自分が何をしうるのかじっくりと考えて見たいと思う。

One thought on “認識と「仮想現実」

  1. 最近のVRの報道を見ていると、VRの可能系は人間へのそこの認識の有り様を考えさせられるのもになるのではという興味があります。

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