5-創作文

魔女の呪い

会場は緊張感に包まれていた。
新しい元号の発表は11時からなので、あと30分は時間がある。会場では、さまざまなメディアの記者が、即座に記事を送信できるよう準備を整えている。紙のメモやノートを持っている記者はひとりもいない。そんなものでは到底追いつかないスピード感が、この国のメディアに浸食しつつあった。
国民の関心も高いイベントだ。昨今では、共通の話題など砂漠の雨くらいに乏しいが、統一して使われる元号となれば話は別だ。程度の差はあれ、ほとんどの視聴者が興味を持つだろう。各種ビジネスへの影響も大きい。視線が集まるのは当然のことだ。
しかし、俺が抱えている緊張感はそれとは違ったものだった。魔女の呪いを受けたのだ。

「あなたは、新しい元号の発表を聞くことはできない。その瞬間、平成のあのときに戻されるの」
魔女はそう言った。笑ってもいなかったし、蔑んでもいなかった。もちろん、怒りはどこにもない。淡々と事実が報告されただけだった。しかし、それはたしかに魔女の呪いだった。
タイムリープ。
噂は聞いていた。そういう力を持つ魔女がいるのだと。しかし、それは噂でしかなかった。噂には実体がない。だから、いくらでも膨らむし、どんな姿にでもなりえる。魔女の話もそんなものの一つだと思っていた。でも、それは違った。魔女はたしかにいて、俺の前に姿を現した。
「この世界はね、とても精密な機械のようにできているの。さまざまな事象が他の事象に干渉して、数え切れないくらいの分岐を生み出す」
──世界は可能性に満ち溢れている。
「そのあまたの可能性のうち、たった一つだけを除いてあなたは新しい元号の発表を聞くことはできない。その瞬間に平成の始まりに戻される」
──なぜ。
「知っても意味はない」
──意味がなくても、知りたいんだ。
魔女は、一瞬だけ答えを躊躇した。しかし、再び精密な機械のように答えを紡ぎ始めた。
「その一つの可能性を除いて、あなたは死んでしまうから」

ありとあらゆる厄災が俺を襲ってくるらしかった。たまたまの事故で死ぬこともあれば、たまたま誰かの悪意を買って死ぬこともあるらしい。大事件に巻き込まれたり、防ぎようのない災害の渦中に放り込まれることもあるらしかった。「とことん、ついてない人」とその魔女は言った。俺自身にその実感はないが、魔女の話が本当ならたしかにそうだろう。
たった一つだけの可能性。あらゆる組み合わせの中にある、細い糸だけが、俺をタイプリープの繰り返しから救ってくれる。その可能性の提示は、希望のようでいて、やはり呪いだった。
幸い、俺はまだ最初のリープを体験していない。これが正真正銘一回目のチャレンジだ。ここから俺は、あらゆる困難にぶつかり、あらゆるフラグを立てまくり、あらゆるマイナスフラグを折りまくり、何度も何度もタイムリープを繰り返して、生き延びられる糸を掴み取ることになるのだろう。そう考えると、自然に拳に力が入ってくる。
会場に官房長官が現れた。一斉にフラッシュがたかれる。
「新しい元号は……」
あっさりと新しい元号は発表された。拍子抜けするくらいあっさりと。

リープしていない? 
俺以外の記者は必死にキーボードを叩いている。そのテキストが送信され、原稿になり、活字になり、さまざまな人の目に、そしてその脳に届くように指が踊っている。平成という時代の葬送曲が奏でられている。
俺は呆然としていた。
俺はその元号を、耳にすることができた。一度もリープを経験することなく、タイムリープの繰り返しから抜け出ることができた。なんだこれは。魔女の呪いはどこにいったのだ。
何事もなく時間が過ぎているというのに、俺は怒りにも似た感情を覚えていた。さっきまで自分が抱えていた決意があざ笑われているんじゃないか、という感覚はなかなか消えなかった。しかし、記者たちはそんなことに構うことなく、キーボードを叩き、世界に向けて情報を送っている。その情報が、人々の生活を回している。なにも記者の仕事だけではない。あらゆる仕事が、あらゆる作用を目指している。良いと思われる方向に向けて。
俺は唐突に理解した。これが、この世界線が、そのたった1つの可能性だったのだと。魔女の言ったことは間違っていなかった。たしかに、そんなことを知っても意味はない。
俺もまた必死にキーボードを叩き始めた。あらゆるフラグを立てるために。

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