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やるおわと『グッドバイブス』

『グッドバイブス ご機嫌な仕事』には、「意味づけ」を手放す、という話がたびたび出てくる。

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現象や出来事は、ただそこにあるだけであり、そこから意味を汲み取っているのは、自分自身だ。プラスの意味を汲み取るのも、マイナスの意味を汲み取るのも、意味づけの機能なのだ。だから、マイナスのものがバンバン生まれてしまっているならば、その意味づけ機能(作用)を変えていきましょう、という話なのだと思う。『虐殺器官』でアレックスが言っているように、地獄というのは頭の中にあるものなのだ。

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この辺の話は、『ブッタとシッタカブッタ』シリーズや、『人はなぜ物語を求めるのか』を合わせて読むと、より理解できるだろう。

ブッタとシッタカブッタ 1こたえはボクにある
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話としてはごく簡単で、一度そう気がついてしまえば、二度とそれ以前の認識は戻れないほど圧倒的なものなのだが、かといって言葉で説明されて即座に納得はできない(というか、即座に納得しただけではほとんど意味がない)ものである。人は、自分の世界を自分で作り出しているのだ。というか、そのような作用(の一部)を自分と呼ぶのである。

問題は、その作用がいつでも完璧に機能するわけではない点にある。たとえば、私は花粉症だが、人体には特に害のない花粉に免疫系が頑張ってしまっている。それと同じように、何かをマイナスとして捉えることには効能が──生存競争に有利に働くと言い換えてもいい──あるのだが、それが過剰に働いて、生きづらさを生んでしまうことがある。

特に、人類はこれほど多くの人と接し、大量の情報を浴び、固定的な社会システムに順応するように進化していないので、なおさら、そういうことが起こる可能性は高い。

タスクを管理する自分

ここで、『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』(以下やるおわ)である。

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本書では、基本的に「タスク管理」を良いものとして捉えている。何か事に臨むとき、タスク管理的なものを一切やらないよりは、少しでもやった方がいいという前提に立っている。

本来はそういうものが一切必要ない社会がいいのかもしれない。しかし、現状の社会は、ひとりの人間が自然にこなせること以上のものをその成員に求めてくるので、何かしら手助けとなるツールやノウハウが必要となってくる。社会とすりあわせるための技法なのだ。

しかし、である。タスク管理を代表とするセルフマネジメント全般は。「自分で自分を管理すること」なのだ。そう、ここにも「自分」が出てくる。管理する対象としてではなく、管理する主体として。

そして、その自分は、自分の世界を作り出している自分と重なる地点にいる。つまり、その働きが常にうまく機能しているとは限らない。この点に、危うさがある。

だから、やるおわでは、隙間を入れた。管理しようとすることに固執しないことを添えた。今の自分が「やるべきだ」と感じていることって、本当にそうなのだろうか? と考える余白を設けた。自己(の認識)を相対化し、自分の意味づけについて考えられるように意図した。

その自問の結果、どんな答えが出てくるのかは、私にはまったくわからない。それにすぐにうまく答えが出せるのかどうかも謎である。

それでも、一度与えられた状況に疑問を挟むことなく、ただただ効率的にこなすことが「成功法」なのだ、という考え方から抜け出るための窓はそこにはあるように思う。

不可能な主体化

これはまた、主体化を巡る話でもある。

主体性を発揮するとは、コントロール力を発揮することであり、対象をコントロールすることである。それはつまり「自分」の領土化に対象を置く、ということだ。もしそれが実現すれば、自分は非常に快適に過ごせる。心地よく過ごせる。外敵もなく、安寧に暮らせる。だから、その領域を増やしたいと願うこと自体は間違ってはいないだろう。

しかし、この世界はままならないものである。自分の思い通りには決してならないもの(他者、と呼ぼう)が存在している。その他者を主体化のもとで取り込もうとすると、苦しみが生まれる。ときには憎しみも生まれる。それは、永遠に解消されない感情である。だから、これを捨てる、という方向性には賛成だ。

しかしながら、私は主体化のすべてを手放したいとまでは思わない。だからこそ、そのバランスとして、やるおわでは「舵を取る」という表現を使った。これが私の中でちょうどいい塩梅の主体化である。

シェイク

『グッドバイブス ご機嫌な仕事』にこんな記述がある。

「バラバラ意識」にいるとき、私たちは「過去」と「未来」に生きている

このことを逆に捉えれば、私たちは「過去」と「未来」に生きているとき、「バラバラ意識」に近づいてしまう。

「過去と未来は、私たち人間が頭の中で作り出したバーチャルな世界」

だからこそ、私たちは未来を思い描くとき、乖離を体験することになる。実際に「いまここ」にある現在と、それとは異なるバーチャルな世界としての未来に引き裂かれてしまう。

おそらく、そのとき問題になるのは、「いまここ」にある現在からバーチャルな未来に完全に軸足を移してしまうことだろう。おそらくそのような状況が「未来の目的のために現在を手段にする」ということなのだと思う。

たしかにそういう時間の使い方──つまり生き方──はつらいと思う。実際に自分が属している「いまここ」が持つ価値が忘却されている上に、未来の成果はなかなか手に入らない。ぶら下げられたニンジンがある間は走り続けられるが、その時間はずっと空虚なものである。

だからといって、私たちは、未来を思い描くことすら捨てなければいけないのだろうか。

この疑問は、こう言い換えてもいい。私たちが未来を描くとき、常に軸足が完全に未来に移ってしまうことになるのだろうか、と。もし、その答えがYesならば、私たちは未来を描くことを捨てることでしか機嫌の良い時間の使い方はできないことになる。しかし、答えがNoであるならば、別のやり方もあるはずだ。

私はここで、シェイクの概念を思い浮かべる。

『アウトライナー実践入門』では文章の執筆法として、『アウトライン・プロセッシングLIFE』では日常と人生を調和させる方法として提案される「シェイク」だが、これは何もアウトライナーの操作だけに留まる話ではない。というよりも、ある種の概念操作(知的操作)がアウトライナー上で行われている、その実例の開示がTak.氏の著書だと言えるだろう。

そこで行われているのは、「今」と「未来」の調和である。いまここに厳然として存在している自分と、思わず思い描いてしまう未来との融和である。しかたなく分裂してしまう二つのものに、歩みを寄りをもたらすもの。それがシェイクなのだ、と私は感じる。

もちろん、思い描くバーチャルな未来は消え去ってはいないから、苦悩は確実に生じることになる。それでも、そこに一定の折り合いは付けられるのではないかとも感じる。半分は、「いまここ」なのだから。

さいごに

軸足を半分だけ移す。というよりも、軸足の行き来をする。

やるおわに話を引き戻せば、現実の自分にできることと、「やらなければならないこと」の、そのどちらにも軸足を移すこと。

そのやり方は、あまりにも中途半端に見えるし、かっこよくすらないだろうが、案外続けていけそうにも思える。

とは言え、これは花粉症程度の話であって、マイナス作用が本当に暴走しているときは、中途半端なことはしない方がいい。その点は言い添えておく。

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