言葉の持つ意味というのは、一義的ではない。
個人個人によって、「言葉の意味」というのは違う。
本来、言語はそれ自身が統一的な意味を持つから成立するものである。
Aさんにとっての「ありがとう」がBさんにとっての「おとといきやがれ」だったとしたらかなりの混乱を生じる。
同一言語では、同じ言葉は同じ意味を持つ。それが言語の一番下の基礎になっていると思う。意志の疎通のための道具としてはそれがないと成立しないと思う。
しかしながら、言葉はイメージを持つ。
そのイメージは価値観とリンクしている。
個人の価値観が異なる以上、言葉というのは多かれ少なかれ「差異」を生じることになる。
当たり前だが、善という言葉は「善」である。同様に悪も「悪」である。美は「善」であり、醜は「悪」である。(ここで述べている善、悪というのはプラスイメージをもたらすか、マイナスイメージをもたらすかということである)
こういう抽象名詞は案外はっきりとしている。
では、テロ、あるいはテロリズムは「善」であろうか「悪」であろうか。あるいは社会主義、民主主義は?
自由は?平和は?戦争は?武器は?改革は?
保守?リベラル?改革?都市?自然?
こういった言葉を「善」「悪」とはっきり区別するのは難しい。
しかしながら、先進国、特に情報が溢れかえっているような国においてこのような言葉のイメージはかなり固定している。たとえば自由民主主義なんて「善」の最たるものであろう。
が、果たしてそれは真実であろうか。
先ほどあげた言葉達は、ある人たちには「善」であり、またある人たちにとっては「悪」であったりもする。
それらは容易に変換しうるものである。
結局のところ、その言葉自身にはそういった色は本来ないものである。
しかしながら、情報が過多に流される中で、いろいろな方向性の中で言葉のイメージというのが定着していく。あるイデオロギーを持っている人間は、そのイデオロギーを共有する人間と同じような言葉のイメージを持つことが多い。
それは、人間が物事を認識する場合に、どうしても言葉というものを使うからだ。
もう一度述べておくが、本来は一般的な名詞に「善」も「悪」もない。
言葉はただの看板でしかない。
同じ看板を掲げていても、まったく内容が異なることもある。
しかし、「善」なる言葉の遂行のためならば全ての物事が正当化されているような風潮すら感じる。
言葉は個人によって様々な意味を持つ。だから、共通の認識を持つことは不可能だ、といいたいわけではない。
同じ言葉を使っていれば意志の疎通が可能だという認識は甘い、といいたいわけである。
おそらく今の日本で「改革」という言葉ほどその意味を失いつつある言葉はないと思う。これを「解釈」の違いという理由でほっておいて良いはずがない。
今回も長くなってしまいました。
TB: 言葉と認識
Rashitaさんのblogへのコメント(TB)
そっか。コメントじゃなくて、TBにするんだった。
2回目のコメントを書き込んで、送信する前に気がついた。
自分以外のところでは、なるべくコメントをトラックバック
させることにしました。
折角の元記事を自分のところにきた人たちにも読んでもらいたいからです。
自分のコメントも書きっぱなしになってどっかにいっちゃうし、長く書いたり出来ますし。
>おこばさん
コメントありがとうございます。さっそくTB見に行かせてもらいます。
言葉と認識かぁ。。。
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