「タスク」の研究

仕事ごっことタスク管理

以前にも書いたが、「仕事ごっこ」という言葉は、本当の仕事とは何か、という問いを喚起する。あるいは、「今必要とされている仕事は何か」と言い換えてもいい。

その問いは、必然的にその企業の使命や生み出す価値への検討へともつながっていく。むしろ、それが検討されなければ、「仕事」を定義することもできない。天下りのためだけに作られた会社で必要な「仕事」は、何もしないことだろうし、もっと言えば目立つことをしないでもあろう。それぞれの企業には、それぞれの目指すべき価値があり、その価値に準じる形で仕事が定義される。

よって、「非効率」な作業をただ削減していけば、それで残った作業が本当の「仕事」だと話を進めることはできない。効率の悪い作業であっても、それがその企業の提供する価値と結び付いているなら、削減対象にすることの方が間違っているからだ(ザッポスの顧客対応を効率化したらどうなるかを想像してみたらいい)。

何かの作業が効率的かどうか(あるいは非効率化どうか)を決定するためには、審級が必要である。その審級が、企業の定義だ。つまり、「この企業はどんな価値を生み出す組織なのか」である。それを抜きにして、目についた「非効率」な作業を削減していくのは、単なる思考停止の裏返しでしかない。一つの思考停止から別の思考停止へ移り変わっただけ。シーソーが反対に傾いただけ。ただ、それだけである(事業仕分けが一体何をもたらしたのかを思い出してもいいだろう)。

「仕事」を定義することは、少なくとも、一社員にできることでないだろう。彼らにできることは、問題を指摘することだけである。あるいは当人から見て問題だと思えることを報告するという言い方をしてもいい。

指摘された問題が検討され、価値の有無が吟味され、作業内容が刷新される(あるいは現状維持される)。そういうプロセスが働いていなければ、形を変えた独裁でしかない。社長の一存でも社員の一存でも、独裁は独裁である。

御題目として唱えられる企業の理念はいくらでも綺麗に着飾れるが、ここで言いたいのは、そういうものではない。その企業の構成員全体が共有する企業についてのイメージ、言い換えれば、それぞれがその企業を何を生み出すための組織だと考えているのか、そういうものである。

そうした共有的なイメージは、社長一人の決定でどうこうできるものでもない。その定義を、企業全体に染みこませる動きがなければ、広まりようもない。つまり、その定義の刷新は簡単なことではない。

たしかに、企業の定義からみたときに、非効率な作業というのがあるあろう。それは刷新されなければいけない。

しかし、その定義そのものが、時代遅れということも十分あり得る。そのような定義を持つ企業は、自らその定義を書き換えていける力を持たないのであれば、市場から撤退してもらうのが一番である。少なくとも、市場原理ではそうなっている。そうした企業を、無理矢理延命することには、ほとんど意味がないばかりか、有用なリソースが解放されない害すらもある。

言い換えれば、「仕事」ができない企業はさっさと消え去ってくれていい。個々人の生活を無視するならば、そういうことが言えるはずだ。しかし、逆に言えば、個々人の生活を優先するならば、簡単に「潰れてしまえばい」とも言えない。そこが現実的な問題の難しさである。解答用紙に文章を書き込むだけでは済まないのだ。

ここで個人のタスク管理に話をシフトさせる。

まず、仕事の「定義」が壊れている企業に勤めている場合、個人がどれだけ効率化に取り組もうとも、必然的な限界がやってくる。

組織の中の人間の「やること」は、組織が決定するわけだが、その決定機関が壊れているのだから、これはもうどうしようもない。台風の中にあっては、傘の大きさなどほとんど意味を持たない。

もちろん、人間は優れた適応力を持つ生物だから、降りかかる「やること」にある程度までなら慣れることはできるだろう。主体性を持ってコントロールすることもいくらかはできるかもしれない。

が、それでも人間の限界を超えることはできない。それを越えてしまったら、戻ってこれない線というのはたしかにあるのである。どれだけ精神論を持ってこようが、自分の心を誤魔化そうが、肉体的な限界は以前として存在している。そうした例を、私たちはいくらも目にしてきたのではないか。それを無視するのは、あまりに傲慢であろう。

ちなみに、仕事の「定義」が壊れている企業は、そこに所属する人間に負担を押しつける方向で壊れることになる。その逆になることはほとんどない。それは、企業の目的が利益を出すことだとされ、人件費を削るのがもっとも簡単な(思考停止状態で安易に導きされる)答えだからだろう。

そうした場合、もし組織の方に働きかけて、多少でも改善が見込まれるようならば積極的に動いてみる価値はある。が、その感触が微塵もないようならば、価値を吟味する機関そのものが壊れているので、それ以上は動きようはない。遅かれ早かれ、崖から落ちる列車なのだ。さっさと逃げ出すことを検討した方がいい。

もし、そうでないような企業であれば、タスク管理はかなり役立つ。仕事の全体を把握し、流れを調整し、必要とあれば割り振りを変える。そういう裁量があるなら、自身の負担を軽減することは可能だろう。

が、このレベルの話はもうすでにたくさんのビジネス書で語られているので、ここでいちいち取り上げることはしない。

上の場合よりも、さらに裁量が大きいならば、単純な備忘録・再配置的な管理だけではおっつかないだろう。自分で、「自分の仕事」を定義しなければならない。言い換えれば、自分がこの企業に提供できる価値は何かを見極めなければならない。

タスク管理は、その結果として行われることになる。つまり、「自分の仕事」を定義した上で、「これは自分のやることだろうか?」というフィルターを働かせ、「そうだ、自分の仕事だ」と思ったものを管理することになる。

この行為全体をタスク管理と呼ぶこともできるし、最後のタスクの管理だけをタスク管理と呼ぶこともできる。その辺は、好みで構わないが、この二つが切実につながっていることは間違いない。

でもって、上の話は、そっくりそのまま企業にとっての「仕事」の定義の話と同じなのである。それはもう、かなり以前にドラッカーが指摘していることだ。知識労働者は、一人ひとりがマネジメント層なのだ。自分で自分をマネジメントする(あるいはしなければいけない)存在である。

やっかいな問題が起きるのは、組織に所属する人間が「自分の仕事」を定義しているのに、企業の「仕事」の定義がそれに沿っていない状況である。これは軋轢が起きる。あるいは、個人が我慢を抱え込むことになる。そのような我慢の蓄積が、革命の契機になる可能性はいつでもある。

しかし、あらゆる革命がそうであるように、その目指すところが本当に正しいという保証はどこにもない。別に間違っていると言いたいわけではない。革命を志しているからと言って、正しいと断言はできない、というだけだ。

個人の方が間違っている可能性だって、いつだってある。少なくとも、その可能性を忘れてしまうのは、盲信であろう。だからこそ、価値を吟味する機関が必要なのである。

私は、企業の話をしようとしているのではない。あくまで視野は個人のタスク管理に向いている。

「人生を変える」。実に立派な目標である。悪い習慣を捨て、良い習慣を手にする。たしかに、それで人生はよくなっていくだろう。たいていは。

でも、変えようとしている自分が間違っている可能性は無いのだろうか。「自ら」という主体は、そこまで誤謬がない存在なのだろうか。それは、時間をかけた検討なしに下されていい決定なのだろうか。私は、私に対して事業仕分けをしようとしてはいないだろうか。

提起したい問題は、そのようなものである。

もちろん、そのような問題など、98%は不要な問題だろう。そんなややこしいことなど考えずに、人生は生きていけるはずだ。でも、2%ほどは、大きな、しかし隠されていて見えない落とし穴というものがある。

その穴の存在について、ささやかな警鐘を鳴らしているのである。

▼こんな一冊も:

「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門 (星海社新書)
倉下 忠憲
講談社
売り上げランキング: 25,768

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です