物書き生活と道具箱

書き手としてのテーマを探る

以前書いた「プログラミングとタスク管理」という文章を読み返していて、ふと疑問に思った。

均一的な価値観から、多様性ある価値観へのシフトは、こういう側面からもエンハンスされて欲しいものである。

この記事において、私は何を「肯定」しようとしているのか。

もちろん、その問いは、このブログが何を「肯定」しようとしているのか、という問いへとつながっていく。

あえて明文化はしていないが、昔からずっと「個人のエンパワーメントを助けたい」という思いがあった。このブログを更新しているのも、そうした思いが3%以上、60%未満くらいはある(残りは趣味である)。

「個人のエンパワーメント」は、特に害のなさそうな概念ではあるが(本当にそうだろうか?)、それはそれとして、「それって結局何なの?」という問いに答えられる程度には、そのことについては考えてこなかった。なんとなく、漠然とそのフレーズを使っていた(あるいは脳内でモノローグしていた)可能性が高い。

改まって考えると、ここでいう「個人」とは一体何だろうか、という疑問が湧いてくる。ひとりの人間という意味だが、もちろんそこにはもっと限定的な意味が潜んでいる。まずもって、エンパワーメントを必要としている存在という前提があるのは明らかだし、しかもその対象がひとりの「人間」にだけ向いているとも限らない。たとえば、零細企業などもこの射程に入りそうではある。一方で、東証一部上場企業はあまりこの射程には入ってこなさそうだ。

どちらにせよ、「個人のエンパワーメント」と言うときの、「個人」とは何なのか。それについて一度考える必要がある。

もちろん、「エンパワーメント」も同様だ。この言葉の辞書的な定義はさておくとして、「個人」がエンパワーメントされるとは一体どういうことなのか、特に現代におけるその意義と実装を問わないことには話が始まらない。

でもってまさにそれこそが、私が「知的生産の技術」や「タスク管理」に興味を持っている理由でもある。そこには、上記の私の願いと呼応する何かがあるのだ。生産性の獲得とかコスパの追求といったこととはまったく別の軸の価値観が。

なぜ、こんなことを考えているのかと言えば、それは自分の(物書きとしての)テーマについて最近考え始めたからだ。

いま鋭意執筆中の「僕らの生存戦略」(仮)という企画案は、とある人から私の集大成のような作品ですね、とコメントを頂いて、自分でもあぁそうかと深く納得している。それは間違いなく大切な仕事なのだが、「集大成」であるならば、そこにピリオドが打ち込まれ、そこからまた新しい言葉を紡ぎ始めなければならない。新しいトピックセンテンスと共に。

「僕らの生存戦略」(仮)の完成はまだまだ先だが、しかしまだまだ先だからこそ、今このタイミングで次の一歩を模索しておきたい気持ちがある。自分はこれから、何を主題として本を書いていくのだろうか、と。それは、物書きになってそろそろ10年という節目が迫っている点も影響しているのかもしれない。「面白い本を書きたい」という欲求は相変わらずだが、それだけでは絞り込めないほど書きたいことが多くなっている。どこかで一度ズームし、ピントを合わせ直さなければいけない。そういう感覚があるわけだ。

でもって、その焦点を見つけ出すために、自分が何を肯定したがっているのかについて考えておくのは悪いことではないだろう。思索としてではなく、むしろ行為の結果を眺めることで、そこにある肯定を見出そうとすること。私が、つい言ってしまうこと、書いてしまうことにある通奏低音を探すこと。

おそらくそれが、「個人のエンパワーメント」というフレーズを書き直すためには必要になってくる。そんな気がしている。

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