思考は駆動する→感想は脈動する。
自分の文章を書くきっかけとして、他人の文章を「写経」することが有効ならば、普段から他人の文章に触れ、そこから駆動する着想を捉えておくことは、自分の文章を書くきっかけとして有効だろう。つまり、読むことは知的生産である。あるいは、その萌芽だ。
だからこそ、読んだときに、何か思いついたことがあるならば、メモしておくのが良い。本を読み終えてなお覚えている自信があったとしても、やはりメモしておくべきだ。その自信は、高い確率で後悔へと変わるだろうから。
なぜなら、思考は駆動するものであり、駆動させられるものだからだ。次々出てくるエネルギーを持った文章たちは、私たちの思考を次々と駆動させていく。最初の着想などあっという間に押し流されてしまう。これは、記憶力の問題ではない。思考の大波がこちらにやってくるから、一時待避しておきましょう、という避難策である。
『知的生産の技術』の中で、梅棹は読書におけるメモ書き(カード作り)に関して、二つの系列を設定した。一つは、その本の著者が重要だとしている「だいじなところ」を書き留めること。もう一つは、読んだ読者が興味を覚えた「おもしろいところ」を書き留めること。この二つの系列のうち、第二の系列が大切だと梅棹は説いた。
そして、駆動させられた思考は、この「おもしろいところ」に対応する。著者の文脈ではなく、読み手の文脈として立ち上がる何か。それはもう知的生産の事始めと言って過言ではない。
だから、感想を書こう。どこでだって構わない。ノートでもカードでも、ブログでもTwitterでもScrapboxでも、どこにだって書き留めることができる。
その際は、学校に提出するような形式張った「読書感想文」のことは忘れてしまおう。あらすじを寄せ集める必要はないし、「良い話」に寄せる必要もない。そもそも、本について一行たりとも触れなくたっていいのだ。ただ、自分が感じたこと、考えたことを記せばいい。それはもう、その本の感想ではなくなってしまっているが、しかし、その本が駆動させた思考ではある。そして、私たちに必要なのは、まさにそちらの思考なのだ。
もちろん、丁寧に本を読み解いてもいい。著者の主張を押さえ、その筋に沿って本の構造を解体してみてもいい。そういう読み方も読書の一部ではあるし、それがまた新しい生産へとつながることもあるだろう。ただし、それだけが読書ではない。感想ではない。感想は脈動し、新たな文脈を形成しうるものである。
ともかくは、感想を書いてみることだ。ただし、読んでみて特に何のエネルギーも湧いてこない本について無理矢理(つまり頑張って)感想を書く必要はない。それはただの苦行である。
そうではなく、本を読んで何か思うことがあるならばそれを書き記す。ただそれだけだ。ただ、人は自分が何かを思っていることに気がつかないことがあるので、その点は注意を払った方がいいだろう。自分の心に耳を澄ませるのだ。
では、検討を祈る。
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