思考は駆動する→感想は脈動する→着想は跳躍する→思考と情報は交差する。
『Scrapbox情報整理術』に書いたように情報はネットワークを形成する。網目状につらなる。
一方で、本はリニアに書かれる。この文章も一続きの列として表現される。それは、私たちの注意が、そして意識がそのように流れるからだ。もう少し言えば、私たちの注意はある点から別の点へと移り変わり、また別の点へと移る、その繰り返しである。その総体が、一種の流れとして捉えられる、ということである(※)。
そして、我々の思考は、この意識に乗る。つまり、思考もリニアに流れる。
ここまでは非常にわかりやすい構図である。ネットワークとしての情報、リニアとしての思考。それぞれに特徴が異なる。だから扱い方も異なる。非常に真っ直ぐな理屈だ。
しかし、混沌の芽はたしかにそこにある。思考されたものが記録されるとき、それは情報になるのだ。
だからこそ、ある種の知的営為はネットワーク型で管理したくもなるし、リニア型で管理したくもなる。そして、どちらもそれなりに機能してしまうのだ。不満足と共に。
そうなると、私たちの要望をパーフェクトに満たすツールは期待できないだろう。どこかしらに、何かしらの不満足が残ってしまう。光が粒子であると共に波であるように、局面局面において振る舞いをかえるからだ。
だから、ある程度は納得済みで進むしかない。それで十分なのだと、前を向いて。
※注
ただし、これは非常に単純化したモデルである。一つひとつの注意の点は、数学的な点よりも、ごく小さい面積を持った円に近い。その小さな円が連綿と続いているというのが意識の流れなのだが、議論が複雑になるのでここでは数学的な点をイメージして話を進めた。
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