思考は駆動する→感想は脈動する→着想は跳躍する→思考と情報は交差する→情報は着地する→対話は円舞する。
情報を相手に届けるためには、それを認識してもらわなければならず、そのためには整地が必要であった。精緻な整地。あたかも神経症的な整地。それが、リニアな流れを作る。文脈を形成する。
一方で、それが100%必要なのかと言えば、そうではない。送り手と受け手が、共に静止していない媒体ならば、精緻な整地は不要である。つまりは、対話だ。
まず、私たちの意識は駆動し、脈動し、ちりぢりに飛んでいく。それを「読み手」に伝えるためには整えなければならない。しかし、それが「聞き手」でもあり「話し手」でもあればどうか。
その「聞き手」の意識も駆動し、脈動し、ちりぢりに飛んでいくのだから、そもそも整地する必要などないのではないか。実際にその通りなのである。
だからこそ、対話は楽しく、また捗る。
整理された(つまりは、固定された)文脈に必要以上に縛られることなく、脈動のままに言葉を綴っていける。また、そのことが聞き手の思考を脈動させ、さらに話はリズムアップしていく。クルクルとまわりながら、舞台の上をすべり動いていくダンスのように。
奇跡的に完璧な呼吸のもと、両者が同じ文脈を共有するときもある。それはそれで素晴らしい体験だ。でも、それが「正解」なのではない。お互いが少しずれた文脈の上でステップを踏んでいても、それは楽しいし、面白いのだ。あるいは、少しずれているからこその、面白さがそこにある。
脈動する意識→静止したメディア→再び脈動する意識、という流れ(たとえば読書)というのは、間に変換を挟んでいる。そのことは、良い働きもあるだろうし、そうでない働きもある。
一方で、脈動する意識→脈動する意識、という直接的なつながり(たとえば対話)は、変換がない。これは、意思疎通が完璧にできている、ということを意味してはない。むしろ、その逆だ。静止するものがないので、お互いに違ったダンスを踊っているのか検証するすべがないのである。
だからこそ。だからこその楽しさがそこにある。なぜなら、私たちの意識は静止するものではなく、脈動するものだからだ。
私たちは、基本的に常に誤配の可能性に晒されている。言い換えれば、絶対的・圧倒的に孤独なのだ。しかし、たとえそうであっても、社会的営為を続けることはできるし、ほとんど奇跡的な確率で、ごくわずかに「心を通じ合わせる」こともできる。あるいは、そのような感触を手にすることができる。
私たちが、もし100%の意思疎通が可能な新しいタイプの人類であれば、そのような感触は取るに足らないものになるだろう。すべての文学や芸術は一瞬で色あせていく。
でも、残念なことに(あるいは幸いなことに)私たちは、孤独である。そして、あまたの芸術がある。
だからこそ、どんどん対話していったらいい。直接の対話でも、間接の対話でも。
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