「タスク」の研究

不調時のタスク管理の哲学

私が不調時に行っていたタスク管理法について紹介してきた。今回は、それを支える哲学について語ろう。いくつかのトピックに分けて提示していく。

できないことはできない

あまりにトートロジーであるが、できないことはできない。できないことをやろうとしても挫折するだけだ。不調時にはそれが顕著に表れる。できることの量がかなり小さくなるからだ。

だから、「できる」ことにフォーカスする。できることを見極めて、そこに注力する。それ以外は、基本的に空想か夢物語と考えておいて構わない。

人間は超人(スーパーマン)ではない

人間は超人ではないし、また、タスク管理を行ったからといって、超人になれるわけではない。

24時間に25時間分の作業を突っ込んだら1時間はみ出る。100しか体力がないのに、120の体力を必要とする作業をぶっこんだら潰れる。

ごく当たり前のことだ。しかし、それが見えなくなってしまう。タスク管理がそれを見えなくするわけではない。それが見えない人が、タスク管理をやろうとして、潰れてしまうのだ。

人間は限りある存在である。その領分内でなんとかやっていくしかない。それが夢や理想からどれだけ遠かろうとも、それが出発点なのだ。

人間は合理的経済人でもない

しかし、やっかいなのが人間が持つバイアスである。「やりたいこと」は能力以上に増え続けていくし、それができるような気もしてしまう。実行の選択も、中長期的に効能があるものではなく、短期的に効果があるものが選ばれがちだし、プラスを得ることよりもマイナスを避ける方が魅力的に感じる傾向もあるだろう。

人は、しかるべき状況であれば、適切な選択が可能である、みたいなことは考えない方がいい。少なくとも、それを当てにしてタスク管理を行うと、ドドーンとした挫折の壁が立ちふさがるだろう。

タスク管理は「やりたいこと」「やるべきこと」のすべてを達成するための方法論ではない

上の話を踏まえると、極めて夢のない結論が出る。タスク管理をやったからといって、「やりたいこと」や「やるべきこと」のすべてが達成できるわけではない。そもそも、そんな方法などありはしないのだ。だって、人間は超人ではないのだから。だって、人間は合理的経済人でもないのだから。

その主体がどれだけ賢明に動いても、動かしがたい現実はやっぱり動かずにそこにある。「すべて」は無理なのだ。せいぜい「一部」である。その「一部」だって人が置かれた状況次第では極端に小さくなってしまう。

それが現実だ。

しかし、何一つ管理も行わず、指針も持たず、レールも設定しないよりは、僅かにマシな結果は得られる、かもしれない。それだって可能性である。成果を確約するものではない。そもそも、成果を確約するというのは非常に怖いことだ。それは洗脳であり、限界を超えた肉体の行使を強制するものなのだから。

だから成果は確約されなくていい。ちょっとは思ったようにいくかもしれないな、という淡い期待くらいでいい。その期待と、情報の整理による混乱の沈静化だけでも、タスク管理を行う価値はある。

負荷に気をつける

そう、混乱の沈静化だ。

人は情報が多いとき、混乱してしまう。何を選んで良いのかわからなくなってしまう。必要な情報が見つけられずイライラしてしまう。そういうことが起こりえる。情報の整理とは、それへのカウンターだ。

しかし、情報を整理した結果、混乱が生じるとしたらどうだろうか? それは整理の目的には沿っていない。やるだけ無駄どころか、有害なのだ。

自分がタスクを選べているか、自分がタスクを実行しているかに注意を払おう。管理する手間の負荷だけではなく、実行時の負荷にも注意を払うのだ。

どれだけ「正当」でも「支持者が多く」ても、自分の実行に役立たないなら、その方法は自分には合っていないことになる。そんなものはくしゃくしゃに丸めてゴミ箱にポイでいい。それを咎める人は誰もいないし、咎められるいわれはどこにもない。

もう一度言おう。「正当」な手順を踏んでうまくできないなら、手順の方を変えてしまえばいい。別に資格試験に受かろうというのではない。自分のタスクを進めることが目的なのだ。「正しさ」なんてクソ喰らえである。

タスクの整理とは綺麗な分類ではない

似た話だが、タスクを整理することとは、すべての「気になること」を正確に、美しく分類していく行為ではない。そうやって博物館的データベースを作っても、基本的にタスクの実行に役立つことはない。

ここではしっかり話を逆転させておく必要がある。タスクの実行に役立つには、どのような分類であればいいか。その答えを知っているのは、実行者たる自分である。世のタスク管理法が、「有用なコンテキスト」を説いたとしても、それがあなたに有用である保証はどこにもない。そんなものに、人生をbetして(あなたが使う時間はすべてあなたの人生なのだ)いいのか。いいはずがない。

タスクに関するメタ情報や、プロジェクトの粒度、何を「いつかやること」リストに送るのか。それらすべてが自分の実行及び、自分の混乱の沈静化に貢献するように動いていなければ用を為さない。

やることを選ぶことに正解はない

優先順位だって同じだ。一段階でも三段階でも2軸のマトリックスでもなんでもいい。そのタスクをどこに位置づけるかは、あなたが決めることだ。そこに一般的な「正解」は存在しない。

究極の優先順位とは「今からやる」だが、それも同様だ。Aというタスクと、Bというタスクがあったときに、そのどちらを選べばいいのかなんて、誰にも答えられない。だって「正解」などないのだから。

そこにあるのは単なる選択である。実行者たる自分が、それを選ぶかどうか。選んだ結果、不都合なことが起こるかもしれないし、都合のよいことが起こるかもしれない。そういう違いはあるだろう。でも、それは「正解」とか「不正解」で判断されるものではないし、それができる人もいない。

ただ選べばいいのだ。そして、選ぶためにタスク管理を行っているのだ。あとはその選択の結果を自分で引き受けていけばいい。どうしても選べないなら、「何も考えず上から実行する」という方法を選んでもいい。サイコロを振るのだって手だ。そして、実行が生まれたら、また見えてくるものも出てくるだろう。

自分の状況に応じてやり方を変える

タスクの選び方に正解がないのだから、それを支える方法にも正解がないことになる。極論すれば、別になんだっていいのだ。実行が生まれているかどうか。話はそれからである。

ある絶対的にうまくいく方法があり、その通りにやっていれば、その方法が成果を保証してくれる、なんてことはない。仮にそういうことが謳われていても、宣伝文句として受け取っておくのが賢明だ。方法は、結果を保証してくれない。責任も取ってくれない。それができるのは、実行者たる自分だけだ。

あまりに不都合な結果が多いなら、その点を変えていけばいい。うまく機能しているのは何なのか、不具合を生じさせているのは何なのか。それについて考える。最初に書いたが、人間は超人でもないし、合理的経済人でもない。だから、不都合な結果は必ず出てくる。それがデフォルトなのだ。人によってその量や程度に違いはあっても、基本的にはそれは変わらない。それを(可能な範囲で)カバーするがタスク管理の技術だが、個々の人のエラーの出方は均一ではないので、やっぱり有効な方法論は人それぞれ違うし、私のように一時的にかなり調子が悪くなったときは、普段とは違う方法論が必要となることもある。

だから、できるだけ原理的に理解しておくことだ。方法論の表面ではなく、その効能を支えている理屈について学んでおくことだ。そうすれば、道具箱から必要に応じて取り出せるだろう。そのときそのときの最適解を(不完全であっても)作り出せるだろう。

小さく始めて、少しずつ自分を知っていく

だから、あまり大きな枠組みからは始めない方がよい。そうしてしまうと、上のようなことがまったく不可能になってしまうから。方法論に詳しくなる代わりに、自分の性質について知る機会を失ってしまう。本当に必要なのは、後者の知識であるにも関わらず、だ。

できれば私も、これまでの知識を活かして「完璧に機能するタスク管理法」みたいなものを提示できたらいいなと思う。それに従ってタスク管理を進めていけば、バラ色の人生が約束されるような、そんな方法を。

でも、それはイリュージョンであるばかりでなく、人を袋小路に誘い込む呼び声でもある。

もちろん完成された一つのシステムは(たとえばGTDは)、有効さを持っているし、それを実践することで得られるものも多い。私だって、GTDから学んできたものはたくさんある。少なくとも、無用の長物と切り捨てることはできない。

でも、それは私にとっての「答え」ではない。誰にとっての「正解」でもない。それは限定的な、特殊な、一時的な「答え」にはなっても、それ以上になることはない。

もう一度言うが、既存の方法論はそれぞれに有効さを持っている。それを、自分の方法に活用できる道はたくさん拓かれている。以下の本はそれを目指したものでもある。

「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門 (星海社新書)
倉下 忠憲
講談社
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でも、結局は自分のやり方を見つけていくしかない。これは不調時であっても、そうでなくても変わらないだろう。

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