アウトライナーで遊ぼう

目標のアウトラインとそこから始める一歩

以下のすてきなエントリーを読んだ。

恋愛のアウトラインからわかること、今は常に変化すること – Word Piece Blog

というような「恋愛のアウトライン」の話を聞いて「おお、この恋愛のアウトラインさえ作っておけば私の恋愛は完璧だ」と思う人がいたら、それは相当にヤバい人だ。そんなことは多少なりとも恋愛を、あるいは個人と個人との間の真剣な関係を経験したことがある人であれば、すぐにわかるはずだ。

どうしてこんな話をするかというと、「恋愛のアウトライン」がうまくいくはずがないことは直感的にわかるのに、人生について目標を立て、計画し、その通りに実行できる(もしできない場合は自分が悪い)と考えてしまう人が驚くほど多いからだ。

その点について、かなり遠回りに書いたのが『「目標」の研究』であり、アウトライナーというツールを通して書いたのが『アウトライン・プロセッシングLIFE』である。

まず、恋愛についてアウトライン主義(=>計画原理主義)を持つ人はやっぱりいる。だいたいは、恋愛経験が浅い人だ。そういう人は、さまざまな「方法」を用いて、自分の思い通りに進めようとする。その「方法」には、懐柔もあるだろうし、権力の誇示や恫喝といったこともありえる。もちろん、相手の気持ちなんてまったく無視だし(というか、そのアウトライン通りにすることが相手にとって幸せだという思いにとらわれているのかもしれない)、それは恋愛とは呼べない(あるいは恋愛そのものである)。

でもまあ、ある程度痛い思いをしてくると、そういう思い違いに気がつく。ボタンをぴっと押したら、ハトが箱から餌を食べる、というようには進まない。なぜなら、相手と自分は相互的に影響しあっているからだ。完全な傍観者はどこにもいない。誰もが観察者であり、対象者であり、実行者なのだ。

さて、ここでビッグ・クエスチョンである。なぜ、「「恋愛のアウトライン」がうまくいくはずがないことは直感的にわかるのに、人生について目標を立て、計画し、その通りに実行できる(もしできない場合は自分が悪い)と考えてしまう人が驚くほど多い」のだろうか。言い換えれば、人はなぜ、自分の人生を「思い通りに」できると思うのだろうか。

まず循環構造に気がつく。「自分の人生を思い通りにできる」と思う、というのはもちろん「思い」である。つまり、「自分の人生を思い通りにできる」ということは、それ自身に内包されている。これはなんらかのほつれがない限りは解けない強固な(あるいは絶対的な)構造を生み出す。

ここにほつれをもたらすのものはいろいろある。が、それらをぎゅっとひとまとめにすれば「経験」ということになるだろう。恋愛と同じだ。

そうなのである。経験を積むことで、私たちは「自分の人生を思い通りにできる」わけではないことを学ぶ。幼児性と父の名。でも、環境があるベクトルを持っているときはどうか。つまり、「自分の人生を思い通りにできる」ことが良いことであるといった価値感が世間に充満していたり、あるいは子ども〜青年に対して、それが実現できる特殊な環境を与え続けていたら、どうなるだろうか。私たちの経験は歪んでしまう。そして、歪んだ経験は歪んだ認知をもたらす。

ここで「何が歪みなのかは相対的であり、絶対的な線は引けない」みたいなモダニズム的反論が立つことは容易に予想できるのだが、それには付き合わないことにする。「自分の人生を思い通りにできる」と思っていると、現実的な齟齬や不都合がたくさん当人に訪れるし、それを(限定的であれ)歪みと呼ぶことは、それほど極端な考えではないだろう。フーコーも許してくれるはずだ。

というわけで、私たちの経験が歪められ、適切なフィードバックが発生しない状況を一つ棚に加えた。それだけだろうか。

もう一つには、設定された目標が持つ固定性・絶対性・権威性という点があり、それは『「目標」の研究』でほのめかした(この本はほのめかししかないが)、ズームイン・ロックアップが原因である。ズームイン・ロックアップとは、アウトライナーを使っているときに、ある項目にズームインした状態で、視点が動かせなくなることをイメージしてくれればいい。上位階層が「見失われ」て、目の前の目標に固執してしまうシチュエーションである。

これは、言葉(概念)の道具性であり、道具がもたらす認知的変容と呼応している。ハンマーがあれば、なんでも釘に見える、というやつだ。目標には力があるのはたしかであり、であるからこそデメリットもある。だから扱いには注意が必要なのだ。

では、他にはどうだろうか。ここでは、目標の立ち位置について考慮しておきたい。目標が自分の内側にあるのか、外側にあるのか、だ。

まず「自分」という概念(あるいは感覚)を取り上げる。「自分」の右手は自分の意思で上げられる(ように感じられる)。「他人」の右手は、自分の意思では上げられない。逆に言えば、自分の意思(随意)では制御できない対象が「他人」に属する。

ではもし、目標が「自分」の内側にあったらどうか。目標だけでなく、その成果やそのために必要な行動(や意志力)のすべて(つまり、人生)が「自分」の内側にあったらどうか。それらはすべて制御可能な対象である(それを「自分」と呼ぶ)。そのとき、人生は制御可能な対象、でなければならない。でないと定義が破綻してしまう。恣意的な定義から、その性質が規定されていく。

一方で、目標が「自分」の外側にあったらどうか。上の言い方をすれば、「自分の人生」が「自分」からはみ出ていたら。そのときは、「すべて」を制御することはできない、という認識になる。

「自分らしく生きていく」という春の陽気のようなテーゼは、もちろん前者に属するだろう。暖かい日差しは眠気を運んでくれる。

■ ■ ■

もちろん、自分の人生は自分の思い通りにはならない。たいていの成果は他者との関係性にあるし、自分ひとりだけの知識で完結できる行動はないし、そもそも「意志力」といったものさえも社会的関係性をまったく抜きにして語ることは難しいだろう。効果的な自律とは、むしろ「自分」以外の力をうまく使うことである。

冷静に考えれば、これはほとんど「常識」とも呼べる事実ではあるが、最初に引いたすてきなエントリーが指摘するように、その「常識」は常識としては定着していないように思う。むしろ、その逆の考え方・価値感が世の中には跋扈している。

たぶん、そこにはロマンが欠けているからだろう。「自分の人生は自分の思い通りにはならない」は、「自分の人生は自分の思い通りになる」という考え方に比べると、若干つまらなく思えるし、少年漫画向きでもない。なにせ「自分」は、対象を制御したがっているのだ。それこそが「自分」の役割である、と言うことすら可能だろう。

でも、その願いは儚いものだ。現実はそういう風にはできていない。

という認識は、あくまでスタートラインである。そう、常識だ。冷静に考えれば自然に出てくる答えなのである。

だからこそ、一歩を踏み出したいのだ。そういう事実を受け止めつつ、それでも、人生に何かをもたらすために目標や理想をセットすること。それにより若干の苦しみが生まれるにしても、その苦しみを踏まえた上で前に進むこと。

自己啓発的に人格主義を目指しましょう、というのではない。それはそれで一つの個性の終わりである。一方で、計画の全面的な廃棄とは、極めて動物的な振る舞いであり、それはそれで一つの良さでもあるが、人間性にまだ期待を抱く私としては選べない選択である。

思うようにならないことが前提だからこそ、わずかでも「思うように」を引き寄せようとする試み。それはすてきな試みではないだろうか。

それにしても、「すてき」という言葉はなかなかすてきである。これからもどんどん使っていきたい。

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