BlogArts

ステマって何でダメなんだろう

ステマが話題になっていました。

「アナ雪2」Twitter感想漫画に「ステマ」疑惑 7本ほぼ同時投稿され炎上 ディズニーは「ステマという認識はない」と弁明 (1/2) – ねとらぼ

ステマ検証 アナと雪の女王 アベンジャーズエンドゲーム キャプテンマーベル(後半メンタンタンドン) – Togetter

「アナ雪2」騒動で批判されたPRタグの無い広告マンガ やしろあずきも過去に投稿認める : J-CASTニュース

さて、ステマって何でダメなんでしょうか。

法律違反だから? じゃあ、法律違反じゃない国でやるステマは問題なし? それってなんだか微妙です。ここで考えたいのは、そういう「やったもん勝ち」のゲームを正当化するための言説ではなく、もっと根本的なことです。

では、仕切り直しましょう。ステマって何でダメなんでしょうか。

ステマとは、ステルスマーケティングの略です。stealth(ステルス)は、 「隠密」とか「こっそり行う」という意味で、ようするに隠されたマーケティングがステマなわけです。

で、一般的に何かを隠すのは、表に出すと都合が悪いからですね。サプライズなども隠されるわけですが、それは後々表に出すことが前提の隠しであって、隠すことが目的ではありません。で、そういうサプライズ的なものを除けば、隠されるものって、都合が悪いから、隠されているのです。

当然ステマも同様で、「これは宣伝なんです」ということが表になると都合が悪いから、隠されているわけです。なぜ、都合が悪いのか。理由はいろいろ考えられそうですが、一つには広告効果があるでしょう。宣伝であることを隠した方が、宣伝効果が高まると一般的に予想されているのです。

では、なぜ宣伝であることを隠した方が宣伝効果が高まるのか。もちろん、それを見る私たちが広告であることを差し引いて情報を摂取するからでしょう。

なぜ、広告であることを差し引いて情報を摂取するのか? 基本的に広告は「盛って」語られるからです。言い換えれば、盛って語られる広告が多いからこそ、私たちは広告であると分かっている情報を差し引いて摂取します。これはつまり、広告というメディア表現そのものが抱える課題というよりも、最近の広告表現の傾向がもたらした課題と言えるかもしれません。その辺の判断は、私には荷が重いのでスルーしておきましょう。

ともかく、広告であることを隠した広告の方が広告効果が高いから(ややこしいですね)、ステマは行われます。ここでの問題は、それが広告であることではなく、それが広告であると明示されないことです。

それが明示されないと、広告であることを摂取者が差し引けないのですから、一方的にマーケティングする側が有利になってしまいます。もちろん、その「差し引き方」は摂取者によって異なります。ほとんど0の人もいるでしょうし、100、つまりまったく信用しない人もいるでしょう。0の人を基点に考えれば、「別に隠しても隠さなくても変わらないじゃないか」と言えるでしょうが、100の人を基点に考えれば、ひどい騙しでしかありません。でもって、こうしたものは基本的に情報を発信する側が重めの責務を負った方が健全な市場運営につながるでしょうから、やっぱりマーケティングする側が一方的に有利になるというのは、ちょっと変なわけです。一時的な成功を収められたとしても、中長期的には広告という表現そのものの価値が棄損されることだって十分にありえます。

でも、「中長期的な広告の価値? そんなの知らね」みたいな価値観の人だったらどうでしょうか。いや、そこまで開き直らなくてもよいでしょう。これから頑張って名を上げていこうという人が、やたら巨大な企業からPR仕事の依頼がやってきたとして、そこに「ステマ」くさい匂いが漂ってきたときに、「中長期的な広告の価値を守ることが大切だから、これは断ろう」と思えるでしょうか。いささか難しいように思われます。

では、そこで線を引き、踏みとどまれるものがあるとしたらなんでしょうか。

それはやはり、自分が発信した情報を摂取する人に大なり小なり嘘をついてしまうことへの心苦しさでしょう。あるいはその行為によって、築いてきた(あるいはこれから築こうとしている)信頼を棄損してしまうことへの恐れでしょう。ようするに、自己の利益を守るためです。ただしそれは、目先の利益ではない、自己の利益です。

御題目として、ステマをやっちゃいけない理由はいくつも挙げられるでしょう。でも、そちらサイドの理由は常に「ばれなきゃいいじゃん」という話でうまく丸め込まれてしまいます。しかもそれは、悲しいながら真実の一側面をズバンとついているので、わりとどうしようもありません。

でも、もしバレてしまったとき、一体「自分」は何を失うのだろうか、と想像力を巡らせておくことは大切なことでしょう。まずバレないとしても、それが大企業からの仕事であっても、他に同じことをしている人がたくさんいても、何十回に一回はバレてしまうかもしれません。そこで何が起きるのか。

たしかに目の前に差し出される少なくない報酬と、可能性でしかない「バレるかも」を天秤に掛けたら、やっぱり前者に傾いてしまうでしょう。それは人間的にナチュラルな反応だと思います。少なくとも、極悪人だと糾弾することはできません。でも、天秤が少し傾いたとしても、即座に決定に結びつけずに、少しだけ考えを巡らせることはできます。

そこまで考えて上でなお危ない端を渡る人を、縄でがんじがらめにして拘束することは──物理的にも人権的にも──できません。結局、最終的にはその人の判断です。

だから、私から言えるのは、決断する前に少しだけ考えましょう、ということです。その「隠し」が発覚したときに、「自分」は何を失うのだろうか、と。その行為が、枠組み的にステマと呼びうるのかどうかはここでは関係ありません。そんな瑣末な話に入り込むと、大切なものを見失います。自分が何かを隠して発信するとき、情報の受け手との関係性はどうなってしまうのか。自分はその結果についてどんな感じを受けるのか。それについて考えてみると、天秤の傾きが少しは変わるかもしれません。

とは言え、「傾きを変えるのが善だから皆やろう」と言いたいわけではありません。単に、十分に自分が納得してやっているのか、ということが大切だという話です。

▼こんな一冊も:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です