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平坦な地点から世界を眺望する時

ひできさんのブログの記事を読んで考えたことを少しまとめてみたい。

まず、第一に人間には、自らが棲む(住む)場所が必要だということ。

これは、現実世界での土地ということもあるし、社会上の地位ということもある。社会上の地位というのは、単に会社での肩書きということだけでなく、友達同士の関係、家族での位置づけ、ネット上の関係なども含めることができる。

社会の地位ではなく、社会での「位置」と言い換えてもいいかもしれない。

その位置を確保することが、そのままアイデンティティーを形成していくことと結びついていくような気がする。

ある地形をイメージしよう。どこだっていい。山でも川でも海でも、都会でも田舎でも中途半端な都市でも、とにかくある地形をイメージしてみる。

360°くるっと見て回る、するとその地形は緩やかながら変化を起こす。太陽はその位置を代え、山の形は変わり、ビルは見えなくなる。

一周を回り終えると、もとの風景が戻ってくる。

これが、あなたの場所である。

平面地図を上からのぞいたときに、どこかの一点にしるしがつけられる、それがあなたの場所である。

他の人は、そのほかの一点にしるしを持つ。違った場所から違った風景が見える。
それが、あなたが「あなた」であるということだ。

あなたにはあなたにしか見えない風景があり、他の人間はそれぞれに自分の風景を持つ。

その平面上には無数の点が存在する。
つまり無数の風景のバリエーションが存在する。

これが、わたしの「人間の自我」というものの認識である。一人の人間は一つの点を必ず持つが、2つ以上の点を持つことはない。

同じような風景を見てる人のことは理解しやすいが、荘でない人のことはなかなか理解しにくい。

もし、ネットというものが平坦な世界を構成するとしたら、どうなるか。

「私」と「あなた」の区別が非常に難しくなる。

どこから見える風景もまったく同じである。
一つの点は別の点とまったく同じ状況である。
それは容易に交換できるし、一つ一つの点の意味も少しずつ減っていく。

それが「それ」であることの価値がなくなっていく。

いろいろな情報が溢れていて、多彩な世界を構成しているように見えて、360°ぐるっと見回すと、他の誰かと結局は同じ風景を見ているだけだということに、気付く。

とすると、「私」が私である理由、が良くわからなくなってくるのではないか。そういう気がしてしかたない。

しかしなながら、ネットというのは完全に平坦な世界ではないと思う。平坦な世界を作ろうとするある種のグローバリズムを手助けするような機能を持っているとは思うが、ネットそのものは「平坦」ではない。それを生み出す力があるということなのだ。

今、日本人に限らず、世界中でその「平坦」さが少しずつ広がってきているような気がする。

それはそれを望む人たちがいるからだ。

個人が個人であることをやめたがっていたり、人を動かす必要がある人々が、個人の「均一化」を図っているためだ。

個人の均一化と平等ということは、根本的な思想が違う。が、今平等というとなんとなく個人の均一化を目指すような意見を持つ人がいると思う。

それは、完全に誤りである。平等さというのは、「個人の尊重」ということであり、均一化というのは「個人の消失」ということである。

平坦な地点から世界を眺望する時、いったい何が見えるのか。「何もかもが見えて、何も見えない」というのが答えなのかもしれない。

One thought on “平坦な地点から世界を眺望する時

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