0-知的生産の技術

そらでやるのと字をかいてゆくこと

頭のなかのくらやみ – R-style抜き書き

じゃあ全部言語化してってけばいいか、っていうと、それはものすごい抵抗がある

思索は自由だ。梅棹忠夫は『知的生産の技術』で以下のように書いている。

紙や鉛筆をもたずに、そらでものをかんがえるのは、たのしいことである。とりとめない空想にふけれるから、という意味ではない。こつこつと、文字で論理をくみたててゆくよりも、それあでかんがえたほうが、直観的な透察がよくきいて、思想の脈絡がはるかにうまくつくからである。

私も、頭の中だけでいろいろ考えることは多い。新しい企画案について、あるいは、これから書こうとしている文章について。思索の中では、それがうまく進む。でも、それだけでは十分ではない。梅棹はそのことを十分承知していた。

数式をとりあつかうのに、暗算も筆算もそれぞれ特色があるように、思想を開発するにも、そらでやるのと字をかいてゆくのとでは、おのずから特徴がちがっている。それぞれの人の性質やくせにもよるけれど、ことの筋道の透察や、論理のくみたてについては、すくなくともわたしは、文章にかかないで、宙でかんがえるほうがうまくゆくことがおおい。しかし、材料の蓄積はそうはゆかない。

二つのことがわかる。まず、思想の開発において、「そらでやるのと字をかいてゆく」のでは、特徴が異なる、ということ。その上で、梅棹は材料の蓄積において文章として書き留めることの意義を認めている。なぜなら、私たちの記憶というのは長期的にはまったく当てにならないからだ。

脳内空間だけで組み立てられる論旨であれば、脳内は最高の空間だろう。論旨に必要なのは、アウトラインで言えば最上位項目だけだし、しかもそれを流れで捉えておける。歌の歌詞が、頭さえ思い出せれば次々と口をついて出てくるように、論理の流れも、それが「つながっている」限りにおいて非常に記憶にとどめやすい。あれやこれやと入れ替えるために、一切の「(肉体的)操作」を伴わないので、それは極めてスピーディーに行える。

一方で、このことを逆に見れば、脳内空間は詳細の情報をとどめておくには力不足である。アウトラインで言えば、最下層の情報はほとんどモザイクがかかったような状態になっている。非常にあやふやだ。

また、流れに関しても同様の疑惑が見られる。頭の中で「つながっている」ように感じられても、実際に文章に起こしてみると、論理的なつながりが弱い、あるいは論理の飛躍が見られることが結構ある。これは、細部が検討されていないからこそ、起こることなのかもしれない。

だからこそ、書くのだ。書くことで、そのあやふさを暴き出すのだ。それはネガティブに言えば、可能性を剥奪することであろう。しかしそれが、具現化し、誰かに提出するためには必要なことである(つまり、自分で脳内で楽しんでいる分には必要ないとも言える)。

知的生産の中で、「書くこと」に務めるようになっても、そらで考えることを放棄しなければならないわけではない。パソコンがメモリとハードディスクを両方使うように、私たちも筆考と暗考を両方使っていけばいいだろう。

さらに言えば、筆考と暗考の間にも、いくつかのセクションがありそうだが、それについては次回に考えよう。

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