アウトライナーで遊ぼう

{組み立てる=崩す}ためのツール

以下の記事を読みました。

ひとつのアウトライン主義 | gofujita notes

アウトライナーの機能と、情報のダイナミズムやそれがもたらす分類の越境性がいかに親和性が高いのかが論じられています。

注目したいのは以下の部分でしょう。

だから、アイディアはひとつのアウトラインに集める。そうすることで、自分が手にしたアイディアを、しごとや日々の生活、そして人生を支えるアイディアに育てるための、大きな一歩を踏み出すことができる。

情報はネットワーク的ですが、アイデアもまたネットワーク的です。言い換えれば、アイデアは多義的であり、いくらでも使いようがある、という潜在性を備えています。よって、アイデアをひとつのアウトラインに集めることは、たいへん有意義です。

一点、「何がアイデアか」(アイデアはどう定義されるか?)は、なかなかややこしい問題です。私はしょーもないことをたくさん思いつくわけですが、それは「アイデア」なのでしょうか。あるいは、そうした線引きは必要なのでしょうか。これについては少し考えたいところです。

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上の記事を読んでいて、そういえば昔「ワンアウトラインの思想」について語っていたのを思い出しました。

ワンアウトラインの思想 その1 – R-style

記事を書いてから3年ほどだって、自分の中でも新たな思想が育ちつつあります。

一つには、縦一列に並べすぎたアイデアが、まったく扱えずにScrapboxにその保存先を移行したこと。これによって、私の(しょーもないものを含めた)アイデアは、本来的なネットワーク構造の中に置かれることになりました。配置(按配)されることなく、自由なつながりを持てることになったのです。

しかしそれは、際限ない広がりを目指すものであり、いつまでたっても「おわり」や「まとまり」はやってきません。アイデアはそこにある。しかしアウトプットはどうか。Scrapboxにおけるアウトプットは、断片それ一つひとつか、あるいはScrapboxのプロジェクト全体であり、物書き仕事をしている私にとっての「本」という形にはなりません。断片をただ、ネットワーク的に広げている「だけ」では、それは本にならないのです。

本は固定であり、可能性の切断です。どうしたって、ネットワーク的に広がる情報を、ある可能性の中に閉じ込めなければいけません。これは、ネガティブに聞こえますが、しかし、そうしなければ他人にその「メッセージ」を手渡せないのです。

そして、他人にその「メッセージ」を手渡そうと作業する中で、自分の中で育つ「何か」があります。この点には、重々留意すべきでしょう。

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私が、WorkFlowyに並べたアイデアをうまく扱えなかったのは、一つにはその数が多すぎたことにありますが、それ以上に「再按配」を念頭に置いていなかったことにあります。思いついた「hogehoge」というアイデアは、AにもBにも属する。それを決めるのは難しい。ああ、どうしたらいいんだ。とりあえず放置しておこう……、まるで散らかりっぱなしの部屋の持ち主のような考えです。これでアイデアが「整理」されたらびっくりでしょう。

私は勇気を持ってA(あるいはB)に配置すればよかったのです。そして、その具合を確かめながら、必要に応じて再按配すればよかったのです。あるいは、AとBを統合したCを立てれば良かったのです。その視点が欠落し、一度配置したものはそのまま扱わなければならないという思いにとらわえていたために、WorkFlowyに並べたアイデアをうまく「整理」できませんでした。あるいは「整理」という言葉遣いがそのもそも誤解を生み出す原因なのかもしれません。

アウトライナーは{組み立てる=崩す}ためのツールです。断片から全体を組み立て、全体を断片にばらすことができる。そして、それは再帰的に繰り返すことができる。

そのように思い至れていれば、私のアウトラインに並んでいるアイデアたちも、また違った道行を歩んでいたことでしょう。

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アイデアを一箇所に集める。この方針は、基本的に正しいのだと思います。しかし、一箇所に集めただけで万事うまくいくわけではなく、むしろ、そこからの行動をどう捉えるかこそが、一番大切なはずです。

その上でもう一度「アイデアとは何か」「アイデアとはどう定義されるか」を考えてみたいところです。

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