0-知的生産の技術

混じり合う思索と生まれるアイデア

アイデアとは何か」という問いには、いくつかの側面から答えられるであろう。

『アイデアのつくり方』においてジェームス W.ヤングは、「既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」と喝破した。いかにそれが生成されるのかというプロセスに注目した定義といえるかもしれない。あるいは、「アウトライン・プロセッシングのエンジン」のように実際例を挙げて紹介してくれているものもある。

何にせよ、アイデアは捉えがたく、しかし「なんとなくはわかる」という感覚だけはある。むしろだからこそ捉え難いのかもしれない。各々がそれらを限定して、それを定義とする。そういう扱いでよしとする向きもあるだろう。

私のアイデアの話をしよう。

散歩をしていたときのことだ。歩くことについて、歩きながら考えていた。たとえば、駐車場であえて入り口に近いところには止めなない。むしろわざと遠いところに停めたりする。その方が、歩くからだ。なるべく階段を使うようにしたり、ショッピングモールで遠まりして目的地まで向かったりするのも同様だ。仕事をしているときは、一歩も歩かないので、なんとか日常に徒歩での移動を取り入れようとする涙ぐましい努力──というよりも、自分でルールを決めた一種のゲームのようなものだ、というところでイングレスを思い出した。

イングレスは強力だ。あれのおかげでさんざん歩かされたし、滅多に足を運ばない場所にもたくさん訪れた。あれほどの「強制力」があるとは驚きだし、だったらイングレスを再開すればどんどん歩けるのではないか、というところで、思考が異世界からのチャネルと交わった。いや、さすがにそれは大袈裟すぎるだろう。別に考えていたことと、ふとリンクしたのだ。

昨日から、noteのサークルにアップしている作業記録に写真を載せようかどうか悩んでいた。もちろん結城先生の作業ログのパクリである。私は作業記録に華やかさを求めてはいないが、予想よりも多い人がサークルに参加してくれたので(最悪0人だろうと覚悟していた)、なんとなく読んでいる人が楽しんでもらえるものになったらいいなと思うようになった。写真はその一助になるだろうか。

しかし、私は日常的に写真を撮る習慣がない。だからといって、フォトストック的なサービスをわざわざ使うのものな……というところで、思考はストップし、私の無意識下に沈殿していった。

それが、散歩中のイングレスについての思索の際に急浮上してきたのだ。

「作業記録用の写真を撮影してまわることを、自分のゲームにすればいいのではないか?」

そうすれば歩き回る動機付けが増えるし、また作業記録も華やかになる。なんなら私の写真の腕前みたいなのもアップするかもしれない(期待は薄いが)。

一石二鳥である。

でもって、これがアイデアの表出であり、性質である。

ヤングが言った「既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」というのはたしかにその通りだ。私は別口で思索を進めていたものを混じり合わせることで、一つの問題解決を得た。これこそアイデアであろう。

だからこそ、アイデアは「一つの場所」に置いておくのが良い。ある系統の思索が、別の系統の思索に結びつき、新たな視座を与えてくれるからだ。

幸いなことに、特に何もしなくても、実はそれは「一つの場所」においてある。つまり、私の脳内である。だからこそ、私は上記の二つを同一に入れて混ぜ込まなくても、アデイアを思いつくことができた。

あとは、それをより促進する形でツールを使うかどうか、という論点に立ち向かうだけだろう。

上記のように、アイデアは(広義の)問題解決をもたらす。しかし、すべてのアイデアが問題解決に結びつくとは言えない。だから、問題を解決するものがアイデアである、という定義は十分ではない。

アイデアははたして情報なのであろうか。それともある情報と情報が混ざり合うその現象そのものであろうか。まだまだ考えることは多そうだ。

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