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ランダムノートと思考と面白さ

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ランダムノートについてのテーマを持ったランダムノート – Word Piece Blog

ランダムノートとは、文字通り特に何の記事と決めることなく書かれた、つまりタイトルを付けられない記事のこと。ブログの更新をしなきゃならないけど特にネタがないから(当時は意地でも週1回の更新を守っていた)、アウトラインの中からなんとなく関連したトピックを集めてきて適当につないで放流する、みたいな感じが多かった。最初からランダムノートを書こうと思って書いていたこともあったと思う。

ランダムノートについて三つの話をしてみたい。

Scripting Newsと作業記録

引用した記事に「ランダムノートは元はといえばデイブ・ワイナーのScripting Newsの真似だ。」とある。彼のブログはたしかに、一日という枠組みの中にさまざまな記事が集まっているし、その中には特にタイトルを持たないものも多い。

一方こちらは最近私がよく書き留めている作業記録の中のメモである。

ナンバリングだけがあってタイトルがないメモがあり、ナンバリングとタイトルが共にあるメモもある。あと、ここにはないが、こうした連番外の独立した大きいメモもある。

基本的には表記上の違いしかない。すべてはその日の作業記録の中に、特に整理もされずに、思いついた順に記されている。「私が思いついた順」以外の秩序は持っていない。

Scripting Newsでもそうだろうが、基本的にこのタイプのメモは非常に(というより異常に)書きやすい。特に、タイトルを必ずつけなくてもよい、という点が大きい。その楽さは、ほとんど間違いなくTwitterの楽さと同じである。

Twitterに投稿するのが楽なのは、それが140字という制約を持っているだけではない。むしろ、比重として大きいのはタイトルをつけなくてもいい点にある。考えてみればいい。文字数制約は変わらずに、しかしつぶやきには必ずタイトルをつけなければならないTwitterがあるとしたら。

きっとあなたは、私と同じように「1,2,3」のように特にたいした意味を持たないタイトルをつけることだろう。でなければ、つぶやきなんてやっていられないはずだ。

タイトルがあってもなくてもいいこと

もう一度上の記事から引用する。

ランダムノートとは、文字通り特に何の記事と決めることなく書かれた、つまりタイトルを付けられない記事のこと。

「タイトルを付けられない記事」。言い換えれば、名前のない記事。そういう着想はたくさんある。気づき、発見と言い換えてもいい。ちょっと言いたいことだってそこに含まれている。その実例はTwitterのタイムラインを眺めれば十分だろう。そこにあるつぶやき一つひとつにあえてタイトルをつけることも可能だが、それはかなりの困難を伴うだろうし、内容がそもそもタイトルになっているものだって少なくない。

タイトル。

Scrapboxでは、タイトルをどう書くかが極めて重要だし、ブログだって同じだ。川喜田二郎も『発想法』でカードに要点を書き込む筆記係の重要性を説いている。

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だからこそ。

そう、だからこそタイトルをつけるのは困難を伴う。認知力をフル活動させなければならない場合もある。少なくとも、気安く書きつけるのは難しいだろう。

タイトルは、内容の概略を示すものだ。言い換えれば、内容を束縛(制約)するものだ。タイトルを付けてしまったメモは逸脱が難しくなるし、内容が逸脱したメモにタイトルをつけるのも難しくなる。

ここでアウトラインの話を思い出すなら、あなたはシェイク中級者以上と言えるだろう。そう、一番小さいアウトラインの関係性がここにはある。

思考の乱脈さ

私たちのナチュラルな思考は、基本的に一本筋の通ったものではない。だから、一本筋が通るようにまとめられた「本」は、ある意味で不自然な人工物だと言える。よく、考え事に夢中になっている数学者のイメージがフィクションに登場するが、ああいう集中はやっぱり不自然なもの(不健康とまでは言わない)だろう。少なくとも、普通に生活するのは難しくなる。

思考が一本筋の通ったものでないならば、つまりそれが乱脈なものならば、その思考を書き留めたものも必然的に乱脈になる。意識的に、何かしらの対象に思考を向けない限り、そういう状態になる(だから長い本を書くのはしんどいのである)。

言い換えれば、ランダムノートはごく自然な思考の記録だと言える。

そして、それと同じように私たちの日常もまた別段一本筋の通ったものではない。一本筋の通ったものは、ドラマであり、それは虚構である。完全な嘘かどうかは別として、一本筋が通るように整えられた物語がドラマなのである。逆に、私たちの人生は、いろいろなことがランダムに起こり、ぐちゃくちゃのまま並行的に進んでいく。

それでも、「私」という主体感覚の継続と、私の脳の傾向は平均的に機能する。つまり、それは完全なランダムではない。単に恣意的に整えられていない、というだけにすぎない。

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とても秀逸な問いだ。

私たちは整えられた道のりを楽しむ。一本筋の通った書籍の方がわかりやすいし、支離滅裂なドラマよりはベタでも整えられたドラマを好ましく感じる。その方が、情報処理がしやすいからだろう。脳のパターンを好む傾向がここに出ている。

だったらなぜランダムノートは楽しいのか。

一つには、私たちの身の回りには整えられた物語が多すぎる、という点はある。実際リアルな人生は乱脈なものなのだから、そこからの乖離は大きい。その感覚を回復させる意味でのランダムノート的な楽しさはあるかもしれない。

それだけだろうか。

もっと単純に、それが意外すぎない形でのランダムさを提供してくれるから、という見方もできる。人は、整ったものを好むと共に、意外なものを好むという相反する性質を重ね合わせて持っている。

人の生きる生は、ドラマのような一貫性を持ち合わせてはいないが、さりとてまったく脈絡がないわけでもない。日の重なりは日常を作り、日常の重なりは人生を作る。そこに一本通った「自分」がいる(あるいは、そうであるかのように感じられる)。

出来事はバラバラでも、反応する主体は一貫している。それはあえて整えられたものではないにせよ、ある種のパターンをそこに見出すことができる。

そういう方向での面白さもきっとありうるのだろう。わかりやすくはないにしても。

さいごに

ランダムノートについて三つの話をしてみた。

・名前のない記事
・ランダムなもの/無理に整えられていないもの
・一貫した主体

結論はそれぞれで見つけて欲しい。

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