断片からの創造

着想を扱う二種類の断片

二種類の断片について考える。

まず、小さくはあるが、それ自身で一応完結している断片。

これらは、他の断片を組み合わさってより大きな全体の一部になる可能性は秘めているものの、単独で存在していることが可能な断片だ。レゴの一つのブロック。梅棹が豆論文と呼んだものがこれに相当する。

一方で、単独で存在するにはひどく不安定な断片もある。

「流れとランダムさ」や「有限性とゆらぎ。 テーマと脱線。」がそうだ。

これらは、ここから内容を膨らませるか、あるいは他の類似の断片と結合、ないしすでに存在している断片の下位項目に潜り込む形でようやく安定する。梅棹が『知的生産の技術』で「カードは、メモではない」と書いたところの、「メモ」に相当するのがこれだ。

私は最初のメモを「文章メモ」、二つ目のメモを「見出しメモ」と呼んで区別している。

とは言え、「すべては断片であり、全体である」のだから、再帰的な視点を取れば、文章メモも見出しメモも同じであると言える。他のものとくっついて、より大きな全体を形成するのはどちらも同じだからだ。

しかし、人間の脳から見たときに、やはり文章メモと見出しメモは違っている。簡単に言えば、三ヶ月の後の私は、「流れとランダムさ」というメモを見ても、なんのこっちゃらさっぱりな状況になっている、という点で違っている。これは、「有限性とゆらぎ。 テーマと脱線。」においても同様だ。

「流れとランダムさ」は、人間の意識は連続して流れているように感じられるが(それがまさに意識の仕様である)、時系列でとったメモを眺めていると実にランダムにものを考え、いろいろなことを思いついていることがわかる。すぐれた記憶力をお持ちの方ならばお気づきになるだろうが、その着想は以下の記事として結実した。

ランダムノートと思考と面白さ – R-style

ポイントは、「流れとランダムさ」という項目は記事のタイトルになってすらいない、ということだ。これはある種の思いつきのスケッチですらなく、着想の印象の走り書きでしかない。内容に対して、2ステップ以上の距離が空いているのだ。

こういうメモは、ちゃっちゃと文章化しておかないと、急激に輪郭が失われてしまう。

同様に「有限性とゆらぎ。 テーマと脱線。」も、着想のスケッチでしかない。しかも、これはどのように文章化していいのか、現段階でもよくわかっていない着想である。

私の頭の中にあったのは、

「有限性:ゆらぎ」「テーマ:脱線」

という概念関係の類似性である。あるいは左が抽象的概念、右がその実体と言えるかもしれない。テーマは執筆に有限性をもたらすものであり、筆が滑っていく脱線はそこに揺らぎを与えるものである、といったことだ。おお、今こうして書いてみると、少し文章化ができた。

とは言え、「だから?」というので止まってしまう。つまり、それが何なのかにまだ答えられていない。言い換えれば、執筆における有限性の意義と、ゆらぎがもたらす効果にまで言及できて、はじめてこの着想は「とりあえず、よし」と思えるようになる。でもって、そうすれば数ヶ月経っても、自分の脳内にその着想を再起させやすくなる。

こうした変容に比べると、文章メモの方は実に安定している。変化することはあるし、他の断片とくっつくこともあるが、基本的には単体で独立的である。でもって、そうしたものはScrapboxと非常に相性が良い。

では、見出しメモはどうか? 個人的にはアウトライナーのように、操作可能な一つの枠組みに収められる装置が望ましいように思う。無論、Scrapboxだって一つのページに見出しメモを集めていけば、似たようなことにはなるわけだが。

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