0-知的生産の技術 2-社会情報論

梅棹さん、五十年かかりましたよ。

拝啓 梅棹忠夫さま

『知的生産の技術』が世に出てから約五十年が経ちました。そして、2020年の現在、ようやく小学校でプログラミング教育が実施されようとしています。梅棹さんが社会の情報化を睨み、そのための技術の必要性を説いてから、半世紀近くもかかったわけです。

もちろんスタートしたばかりなので、うまい具合に進むのかはわかりません。地道なトライアンドエラーも必要でしょう。そして、プログラミング教育において身につけることが期待されるのが、まさにそのトライアンドエラーの精神です。

最終的に達成したいことを構想し、そのための手順を組み上げ、試行錯誤的に実行を繰り返しながら、得れたフィードバックを分析した上で、手順を修正する。そして再び試行錯誤の実行を繰り返していく。そんな姿勢を身につけることがプログラミング教育に望まれる達成の一つです。

不正解を0とし、正解を100とする、その両極端な(あるいはデジタル的な)理解の仕方ではなく、あるプロセスを経由しながら、対象の理解を少しずつ深めていく、という知識操作のあり方が、そこには潜んでいます。おそらくそれは、不確定な状況の中で、自分ができることを増やしていく態度や、文脈を共有していない人たちとのコミュニケーション成立において必要な姿勢でもあるでしょう。つまり、現代社会において、もっとも必要とされている姿勢なのです。

梅棹さんは、『知的生産の技術』の中で、以下のように書かれました。

今日では、情報の検索、処理、生産、展開についての技術が、個人の基礎的素養として、たいせつなものになりつつあるのではないか。

この状況は五十年経ってより加速していると思われますが、技術の普及はそれに見合った成果を上げていません。一つには、コンピュータが「あなたは考えなくてもいいよ。僕が答えを示してあげるから」と親切にも機能向上しているからでしょう。今なら、検索のコツなど知らなくても、ある語句をいくつか打ち込めば、Googleが「あなたが探していそうな情報」を前もって示してくれます。マスの平均によって生まれた予想を使いながら。つまり、あなたの知識を平均に近づけながら。

処理や生産についても、どんどんAIが肩代わりしてくれますし、「知的生産とは何か」みたいなことを1mmたりとも考えることなく、世界中に向けて誰でもが発信できます。発信のための資格試験など存在しないのです。

梅田望夫さんが2006年に「知の高速道路」というたとえを持ち出されましたが、たしかに現代はそのような高速道路が整備されています。しかし、その道路の正体は「知の高速道路」ではなく「情報の高速道路」です。

そこを走っているのは、人間の理性ばかりではありません。さまざまな厄介ごとを引き起こす感情や、その感情を刺激する広告がわんさかと走っています。そして、その広告を避けるためには、一定量のお金を支払わなければなりません。

それを避けるか、避けないかによって受ける情報的影響の大きさを鑑みれば、そのコストは安いものだと言えますが、かといって万人が支払えるものではないでしょう。小さいながらも、ここに格差があるわけです。

現代では、1秒経つごとに、「情報の検索、処理、生産、展開についての技術」のたいせつさは増えてゆきますが、その普及については、「必要性を感じる」部分を含めてほとんど進展していません。極端なことを言えば、そんな技術などなくても生きていくことはできる──と信じることが可能です。『遅いインターネット』の中で宇野常寛さんがおっしゃったように、「考えさせないため」の道具としてのインターネットに囲まれていたところで、その人の生が壊されるわけではありません。ビッグブラザーを支持していたからといってその人の人生が壊されるわけではない(むしろ守られる)のと同じことです。

だから、僕たちは何か言葉を持って、考えることの大切さを説く必要があるわけですが、「考えさせないため」の道具としてのインターネット──強いて言えば、unthinked wall ── に囲まれている人には、その言葉は届きません。ここに悲しいくらいの乖離があります。

しかし、絶望するのはまだ早いのでしょう。声が枯れるほどの大声で叫ぶのではなく、静かな声で語り続けること。伝えようとするその姿勢を諦めないこと。その継続の中に、一筋の光明が見えてくるかもしれません。人は、壁に穴が空いていたら覗きたくなるものです。そうなのです。壁を打ち破る必要はありません。たとえ小さくても、穴さえ開けてしまえばこちらのものなのです。

情報技術の教育が世代的に積み重ねられていけば、「情報の高速道路」を走る人の姿勢も少しずつ変わっていくでしょう。そうなったとき、私たちとインターネットの関係は(ひいては情報との関係は)また変わっていくはずです。その先に、誰もみたことのない風景が広がっているかもしれません。

結局、インターネットというメディアは、メディア全般の歴史から見ても相当に若いもので、基礎的素養が市民の中で追いついていない状況を考えれば、これから大きく変化していくことが期待できます。その考えはあまりに楽観主義だと思われるかもしれませんが(現状のインターネットはかなり悲惨な部分が多く目立っていますので)、しかし、暗闇の中で光を探すことこそが一つの希望となりうるなら、決してそれを探すのを諦めてはいけないと私は思います。結局のところ、真の断絶を生むのは、無関心と諦めなのですから。

この手紙もずいぶん長くなってしまいましたが、日本の情報的教育はようやくこれからだというところをご報告したかったまでです。「情報の検索、処理、生産、展開についての技術」という個人の基礎的素養を啓蒙する動きは、トップダウンからだけでなく、さまざまな形で横にも広がっていくでしょう。必要なものがあったら、自分の手でそれを作る。それもまたプログラミング精神の一つです。

ややさきばしったいいかたになるかもしれないが、わたしは、たとえばコンピュータのプログラムのかきかたなどが、個人としてのもっとも基礎的な技能となる日が、意外にはやくくるのではないかとかんがえている。

残念ながら、「意外にはやくくる」という予想は外れてしまいましたが、少しずつそうした日は近づいています。プログラミングのコードが書けることそのものではなく、コンピュータとどう付き合うか、その中でどう情報を操作していくか、という基本的な世界観、あるいは考え方を身につけることが、基礎的な技能になりつつあると言っても過言ではないでしょう。

そしてそれは、「日本式」のマインドセットから、別様のマインドセットにシフトする一つの契機でもあります。それは別に西洋的なものである必要もなく、もちろん東洋的なものに固執する必要もありません。むしろ、新たなマインドセットをコーディングしていくことが、新しい社会では必要となるでしょう。言い換えれば、情報の受け手の心理のままに発信者になるのではなく、発信者としての心理を新たに獲得するということです。書を持ち、村から出よう。そんなフレーズが浮かんできました。

そのような新しいマインドセットの人たちが少しずつ増え、周りの人たちに影響を与えることによって、いずれかは社会全体がシフトする。やや先走った言い方になってしまうかもしれませんが、そういう社会の到来は意外に近いのかもしれません。

それでは、いずれまた。

倉下忠憲

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