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なぜDoMA-Styleなのか

なぜ、DoMA(Depend on My Attention)なのか。

一つには、それが使いやすいからだが、それ以上に現代が「注意欠乏時代」だからという点が大きい。言い換えれば、さまざまな誘惑が私たちの「注意」を争奪しようとしているからこそ、注意に重心におくことに価値が出てくる。

とにかく現代は、「やりたいこと」「やるべきこと」が溢れ返る時代である。それはフランス革命以降人権意識が高まり、個人のもとに自由が帰属することが起因する。現代は(神ではなく)主体性の時代なのだ。

個人が持つ自由(あるいは行動についての裁量)が大きくなれば、管理すべき「やりたいこと」「やるべきこと」も増えてくる。これがタスク管理という概念と手法が要請される要因でもある。毎日同じことしかしない人間や、主人の命令以外のことはいっさいできない人間は、タスク管理など必要としない。現代では、個人が自由を持つからこそ、その自由についての管理が必要となる。

しかし、タスク管理とはセルフマネジメントの一分野であり、セルフマネジメントとは「自分が自分を管理すること」である。そして、この「自分」は、完全な自由意志のみで決定を下していないことは認知心理学や行動経済学が明らかにしている。どこまでその影響の強さを認めるかによって意見に相違はあるものの、自由意志が(ないしは私たちが自由意志に拠ると感じる決定が)思った以上に自由でないことは共通の見解になりつつある。

そうなれば、どうなるか。その決定に介在しようとする存在が出てくる。端的に言えば、「広告」がそれだが、それだけではない。さまざまな「成功法」が、あなたの決定に介入しようとしてくる。「これをすればいいんです」「あれをやればうまくいきます」。溢れ返る情報に触れた私たちは、自らその荷物を背負い込む。

結果どうなるか。inboxは破裂する。実行して減らせることと、新規で増えることのバランスが崩れ、どうやっても終わらないタスクリストができあがる。

だから有限化が必要である。純粋なinbox-各種リストモデルは、「肥大化していくリスト」問題についての考慮がない。あたかも人間は、毎日てきぱきとやることをこなす存在であるかのように想定されているし、自分のキャパ以上のものを決して背負い込まない存在であるようにも思われる。イデアだ。ビジネスパーソンのイデア。

これは経済学が前提にするエージェントくらいに非現実的な存在である。あるいは、現代人に特有の傾向なのかもしれない。どちらにせよ、リストは膨れ上がっていくのだ。

だからこそ、GTDでは高度モデルが用意されている。あれは、切断を促すためのビューポイントの提供なのである。「自分の役割」を明確にし、そこにコミットメントを集中させること。その意味で、『7つの習慣』の関心の輪・影響の輪に近しいものがあるのだが、実際GTDではそこまで「捨てること」は強調されていない。その点が、何かしら「自分がやりたいと思ったものをすべて達成するための技術」であるかのように受け取られる原因になっているのかもしれない。ついでにいえば、海外でこんまり流がウケているのは、この反動だとも言えるだろう。

ともかく、何かを捨てることの重要性が説かれていないので、私たちの注意にさまざまな誘惑が襲いかかってくる現代では──心を仏のように保っていない限りは──私たちの「やりたいこと」「やるべきこと」は膨れ上がっていく。そして、inboxはいつしか破裂する。これは、実行者の失敗ではない。システムに規定されていない事態が起きているのだ。だから、何かしら自分で対処していかなければならない。

レビューをしたり、全体を(まるでパソコンを工場出荷状態に戻すように)まっさらな状態から始めたりして、なんとか自分で「見通し」と「コントロール」が得られるようにする。

そうなのだ。状況をコントロールし、見通しを得るためのリストたちが、徐々に肥大化することによって、今度はそのリストの見通しとコントロールが失われてしまう。「状況」に潜むウィルスが、「手段」にまで感染するのだ。

だったら、思い切って、そうしたリストの管理を放棄してはどうだろうか。幸いScrapboxが示すように、私たちは情報の総合インデックスを持たなくても、そこにある情報を使うことができる。必要なのは、リンクと検索だ。それさえあれば、情報は使っていける。それ以外は、「最近の情報」だけが上部に表示されているだけで事足りる。

むろん、まったく同じ手段でいけるとは限らないだろう。しかし、全体像は必ずしも用意しなくてもいい、「使える分」だけがそこにあればいい、という考え方は援用できる。

それがDoMA式の出発点である。

・inboxは、時間経過と共に必ず肥大化すると心得る
・すべてを「処理」しなくても構わない

すべてを適切に「処理」して、機能する完璧なリストを作るというのは、ようするに対象の領土化であり、ある支配の形態である。それができていれば、見通しとコントロール感が得られる。安心が提供される。しかしそれは唯一絶対の方法ではない。それは、独裁政権が唯一絶対の政治形態ではない、というのと同じである。

ある程度の管理は必要である。しかし、すべてを管理する必要はない。細かいことは気にしなくても、日常は送れるはずなのである(気にしなくても日常が送れることを細かいことと呼ぶのかもしれないが)。

にも関わらず、GTDは「すべてを書き出しましょう」という。正確には「気になっていることすべて」なのだが、コレクション欲求と同じでそれを追求していると、「これまで別に気にしていなかったのに、トリガーリストのおかげで気になる対象になてしまった」というような〈格上げ〉も起きてしまう。こうしてどんどん「やること」は増えていく。

本当にそれらを解消しないと、ストレスフリーにならないのだろうか。そんなトップダウンでしらみつぶしに進めていくのではなく、むしろ「気になってから」(つまり注意を向けてから)管理し始めればいいのではないだろうか。

それがつまりボトムアップということの意味である。

確認するまでもないが、「こうしておいた方がよいかも」ということはいくらでも見つかるが、それらすべてを実行する時間は私たちにはない。よって、どう考えても結論は、「気にするものを限定し、その管理に注力する」ということになるだろう。

もしかしたらそれでは100%の効率は得られないのかもしれない。ときどきエラーやポカや避けられた失敗が出てくるのかもしれない。でも、それでいいではないか。完全を求めすぎて、行き過ぎた管理になるのならば、多少の失敗を(ノイズを)受け入れよう。それに、そこから新しく開く扉もあるかもしれない。

何もかもを、「自分の意のままに置くこと」が理想的だとは私は思えない。そんなに「自分の意」はたいしたものではないはずなのだ。対象を領土化しすぎようとすると、むしろ身動きがとれなくなってしまう。管理と放任(つまりは信任)のバランスが大切なのだ。

以上はつまり、新しいタスク管理の考え方の提案である。実際は、メモやらアイデアの管理も含まれているので(それを分ける意義はいまのところ見当たらない)、タスク管理というカテゴリーには留まらないのだが、ともかく「セルフマネジメント」の領分であることは間違いない。

大げさに思われるかもしれないが、現代で一番大切な話が「セルフマネジメント」である。もっと言えば「マネジメント」についての哲学が必要とされている。無能な上司の下についたことがある人間なら痛感しているだろうが、マネジメントべたはあらゆる資源をダメにする。一方で、過剰なマネジメントはそれはそれで資源をダメにする。どちらも結局は行き止まりなのである。

『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』で、「人生の舵を取る」という表現を使って、行き過ぎたマネジメントへの警鐘を鳴らしたが、マネジメントべたを過剰なマネジメントで補うのは良い解決とは言えない。必要なのは「うまいマネジメント」なのである。

昨今企業で(特にコロナの影響で)、新しいマネジメントスタイルの模索が始まっているが、まさにそれと同じレベルで、個人のマネジメントスタイルも新しいものが必要なのだ。それをじっくりと考えていきたい。

というわけで、次回も引き続きMoMA式の話をする。次回は「土間」について語ろう。

(つづく)

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