0-知的生産の技術

楽しいノート 用途のデザイン

「(道具を)使いこなす」という言葉に違和感があるのは、一つには完璧主義の影が透けて見えるからだろう。つまり、そこにある機能を完璧に使えなければ「使いこなしたとは言えない」という思いからくる強迫的な欲求である。それはどこかしら「完璧な読書」に似ていて、永遠に捉まえることができないホログラフィーを連想させる。

あるいは、別の違和感のもともある。それは、道具の使い方には終わり(達成)がある、という考え方への違和感である。「使いこなす」というラインを設定できるからこそ、「使いこなせていない」という発想ができる。しかし、僕たちがある基準に達したとき、もうそれ以上どこにもいかなくていい場所があるかと言えば、実際はそんなことはない。道具は変化するし、道具が変化しなくても僕たちが変化する。道具の使い方に終わりなどないのだ。

アウトライナーと紙のノートブック | gofujita notes_

アウトライナーは紙のノートブックに近い。

形式にまったく囚われないとは言えないけれど、

書きはじめるときに感じる自由の度合いは大きい。

その使い方をデザインするのは、かいていくぼくたちである。

ぼくたちは、かきながら、使いながらそれをデザインする。

梅棹忠夫は、知的生産のための道具は何でも使える汎用的なものがよろしいと述べた。しかし、その汎用的な用途に耐えうるのは、縦横無尽に姿を変える(つまり、自由な)メディアではなく、単一の形態しか持ちえない情報カードだった。ここに面白い矛盾がある。

「情報カード」という統一的な形式(フォーマット)を使いながら、その用途は自由で汎用的だと言うのだ。この矛盾(あるいは矛盾に見えるもの)は、アウトライナーが極めて硬いフォーマットを持ちながらも、さまざまな構造表現を可能にしている点とどこかしら近いものを感じる。

つまり、私はこう問うているのだ。汎用とはなんだろうか、と。

ノートとフォーマット

一冊のノートがある。大学ノートだ。もちろん、大学生でなくても大学ノートの使い道は広い。汎用的だと、とりあえずは言えるだろう。

一方で、英語ノートは使い方が若干狭まる。引かれている線が独特で、英語の記入には最適だが、それ以外の使い方をしようとするとどこかしら無理が出てくる。さらにそのノートが家計簿となると、用途はさらに狭まっていく。基本的には家計を管理するときにしか使えなくなる。

あらかじめ書き込まれたもの。

それが使い勝手を上げてくれる。入力を省力化し、何を書くべきかを明らかにしてくれる。

そう。フォーマットは、形式であり様式である。それは価値観をも体現する。

『手帳と日本人』で舘神龍彦が論じているように、著名人たちの手帳は、それぞれの人の時間の使い方・価値観に沿って各ページの記入欄が形成されている。それは、わざわざ物差しを使ってそれらの線を自分で引かなくてもいいという省力化以上に、「このように手帳を使いなさい」というガイドラインが引かれていることが持つ影響が大きいということだ。すなわちそれは、そこに印刷された価値観を使い手に(まるでナッジのように)強要することだと言えるだろう。

汎用的であるとは、脱形式的であり、脱様式的である、ということだ。

もちろん、そこには「脱様式的である」という様式があることは否めない。非-様式なものなど、(たぶん)どこにもないからだ。

汎用的であるということ

汎用的であるとは、「何にでも使える」ということだ。家計簿が「家計簿に使える」用にデザインされているように、汎用的なノートは「何にでも使える」用にデザインされている。あるいは、非-デザインされている。

別の言い方をすれば、利用者に与えられた「用途のデザイン空間」が(その他のものに比べて)広い。それが汎用的なツールである。

だから、汎用的なツールを「使いこなす」ことはできない。できるのは、自分用に使い方をデザインすることだけだ。

さいごに

おろしたてのノートがワクワク感を与えてくれるのは、そのデザイン空間の広さからであろう。私たちはノートに何を書くのかを考えることで、ノートそのものをデザインしていく。それはある種の人たちにとって等しく楽しい行為である。

実際その楽しさは他のデジタルツールだってあるはずなのだ。しかし、そうしたツールは容易に蓄積できるがゆえに、ノートのように「気分転換に新しいノートを買う」ようなことができない。長年の使用によって狭められたデザイン空間で、私たちの創造性は窒息してしまう。

だから私たちはノートの楽しさに立ち返ろう。自らの創造性を発露できる、そんな道具とのつき合い方に。

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