「タスク」の研究

注意の対象を切り替える儀式

その昔、コンビニで働いていたとき、朝三時とかに起きて出勤する際は眠くて眠くて仕方がないわけだが、それでもYシャツに着替えてネクタイを締め、その上にコンビニの制服を羽織ると、シュッと頭の中が切り替わる感覚があった。眠気はもうどこにもない。

あとは、車に乗ってきわめて短いドライブの中で、その日することを頭に思い浮かべる。お店に着いたときは、ばっちり臨戦態勢で、そそくさとお店の状況を確認して、やるべきことを拾い上げていく。さあ、一日の始まりだ。

そこにはいくつもの儀式(ルーティーン)が絡み合っていたように思う。何か一つのことをしたら、頭がスイッチするというよりも、ドラえもんの秘密道具「ガリバートンネル」のようにあるプロセスをくぐり抜ける中で変異が生じる。そんな感覚である。

しかし、今はどこにも「出勤」する必要はないし、ネクタイを締める必要も、制服に着替える必要もない。起きてすぐさま仕事に取り掛かれるが、それは途中のプロセスの欠落(間の欠如)を意味する。トンネルから、遠く離れて。

案外それはよいことばかりではない。特に、何かを降ろして文章を書くような人間の場合は、なおさらそうである。

しかし、まったく儀式的なものがないかと言えば、そんなことはない。一つは、デイリータスクリストを作り、その日のことについて、特にその日進めるであろう作業について考えいると、徐々に頭が仕事モード(というよりも、物書きモード)へと移っていく。そうなったら、パズドラのチーム編成とか、MTGのグルールミッドレンジの可能性みたいなものは頭に浮かんでこなくなる。不思議なことに、そうなる。

それに、noteのサークルで共有している作業記録用のノートを作成し、そこに一日の予定を書き込んでいくと、さらにその仕事感覚は強まっていく。私のように、好奇心が暴走気味で、注意があっちこっちに飛んでしまう人間には、そういうモードによる思考の制約がおそらく必要なのであろう。

儀式となるものはなんでもいい。というよりも、儀式性は行為の内容よりもむしろその繰り返しの中で生じる。パブロフの条件付けと似たようなものであろう。Aという事象にBという事象が付随するとき、逆にBという事象からAという事象が引き寄せられる。予感される。そこでは選択肢が著しくはぎ取られ、私たちの注意は限定された行為に向かっていく。

野球選手は、打ちたい気分になったときにボールを打てばいい、というわけにはいかない。チャンスは限られている。そのチャンスで力を発揮できなければ、その仕事を続けることはできない。もちろん、それで生命が終わるわけではないだろう。しかし、当人が望むことができなくなる結果は間違いなくやってくる。考え方を切り替えることができれば、その結果は「失敗」ではなくなり、心の痛みからは開放されるが、そういう内側にこもったゲームをしたいわけではないのだ。

あることを成したいという思いがあり、そのために必要な力があるならば、それを引き出せるように工夫する。そうした行為は、オーガニックに考えれば歪んでいるのかもしれないが、そのゆがみの集大成によって現代文明が成立していることは理解しておく必要があるだろう。

話がとんでもなくそれてしまったが、イニシエーションを含めて、儀式は不合理でも前時代的なものでもない。さまざまな心のモードを切り替えて生きていくことは、単純さから遠ざかり、複雑さへと近づくための方法である。

で、オンとオフを切り替えることも大切だが、それ以上に「オン」と「オフ」という二種類の心のモードを持っていることが、大切なのである。

特にこのことは、在宅勤務が増えている昨今ではより強調されるべきだろう。「職場」という侵食率の高い存在から遠く離れるほど、むしろ私たちは仮想的な「オン」に強く引きずられてしまう。
*フリーランスは、自身より強力な集団を持たないので、この辺の心配は少ない。

だから、仕事を始めるときの儀式と共に、仕事を収めるときの儀式に注意を向けよう。別になんでも構わないのだ。「よし、これから仕事をしよう」と思い、「よし、今日はこれで仕事は終わり」と思える何かがあるのなら。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です