3-叛逆の仕事術

『メメント』から考える記憶と記録

クリストファー・ノーラン監督の『メメント』は教訓の多い映画である。

まず目につくのは、記憶の脆弱さをカバーするために、記録が活躍すると点だ。主人公は、長期記憶を持つことができず、自分が刻んだ記録のみによって生きていく。私たちは、映画の主人公ほど長期記憶が弱いわけではないが、それでも心もとないことは確かなので、記録を使うことで私たちの人生が少しでも変わっていくことは間違いない。この点において、ライフハッカーなら必見の映画だと言える。

しかし、Rashitaの哲学には「力が強いものは、力が強すぎる状態になったことも考えよ」がある。

映画が示す物語の起伏の終着点は、一つの恐怖を突きつける。彼が成したことは、本当に「正しかった」のだろうか、と。そう、ここには明確な哲学的命題が存在する。何を持って正しいとするのか。その審級を支えるものは何なのか。

普段私たちにとって、それは記憶である。それはより理性に近い記憶の場合もあれば、刺激されたシステム1によって生み出された粗暴に近い記憶もある。なんにせよ、そうした記憶によって、あるいは内面化された倫理観によって、私たちは善し悪しを判断する。

しかし、記憶がその椅子を降り、記録に自らの立場を譲り渡したとき、それはどう変化するだろうか。

その記録がもし、理性によって構築されたものであれば、理性をただ全うするものとなるだろう。アルゴリズム裁判官のように。あるいは、それが粗暴や狂気によって形作られたものならば、ただそれを体現するだけのものになるであろう。『メメント』の主人公はこちら側だったと言える。

もちろん、その断罪の声は、彼には届かない。彼にとって、世界は完璧に満ち足りており、言い換えれば閉じてしまっている。永遠に終わらないトゥルーマン・ショー。監督は自分自身である。彼は、「なりたい自分」になり、言ってみれば(彼が考える)「ありのままの自分」ですらあるかもしれない。

それがつまりは、ディストピアなのである。絶望を下敷きにした楽園。狂気を狂気だと断定するものを遠ざければ、人は神にでもなれる。

この教訓は、少し入り組んでいる。記録の力が、記憶より強いがゆえに、記録が私たちのすべてを決定してしまうようなことが起こるかもしれない。もちろん、その記録は自然発生的に生み出されているわけではない。どこかの主体が(たいていは自分が)、「これを記録に残そう」と決めているのだ。何かしらの意図を持って。そして、その記録は、ときにまったくの嘘ではなくても、ある程度の脚色やレトリックが含まれていることもある。何一つデータを改ざんしなくても、しかるべき印象に変更することは可能だ。言い換えれば、その記録を見た未来の自分の行動を、意識的に左右することができる。強力なナッジ。誰も否定してこないパターナリズム。

言い換えれば、『メメント』の主人公は、記録によって自分の行動を左右しようと決断した自己によって、その未来が決定づけられてしまっている。彼のタイムラインは進んでいくが、そこでは決定論的に行動の自由・自由意志の発露はない。ある時点の彼が、その意志が、亡霊のように彼の行動と心を支配し続けている。

そのような状況が起こりえる危惧を、メメント問題と呼ぶとしよう。

もちろん、映画『メメント』はかなり極端な状況設定であり、現実の私たちがそれに著しく近似することはない。記憶力が弱いといっても、ある程度のことは覚えている。しかし、5年前10年前になると、そのような楽観は持てなくなる。そこでもし、記録を絶対視するならば、その記録を残したときの自分に、今の自分が左右されてしまうことは十分に起こりえる。カウンセリングによって、自分の記憶を自分で「ねつ造」することすら起きるのだ。どんなことが起こってもおかしくはない。

というような心配をほとんどの人が持つことはないだろう。なぜなら、私たちにはそれなりに保存されている記憶があるからだ。記録が記憶を呼び覚まし、「そういえば、このときはこんなこと考えていたんだよな。黒歴史、黒歴史」と、今の自分によって過去の自分を解釈するからだ。つまり、記憶と記録はつながっている。いや、つながっているからこそ、そこには調和と変化という相反する要素がもたらされる。

言うまでもなく、記録はきわめて大切なものだ。記憶だけで生きていくのは不都合が多い。しかし、記録だけで生きていくことも、別種の危うさがある。さまざまなものを雑多に蓄えた記憶だからこそ、そこには新しいものの萌芽がある。

よって、『メメント』は、記録の力強さと共に、記憶の大切さも教えてくれているように、私は思う。

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