0-知的生産の技術

WorkFlowyは目視して、Scrapboxは検索する。それってどうなのか。

自分の使い方を振り返ってみて、面白いことに気がついた。

自分のScrapboxで何か情報を探すときは、まっさきに検索バーにテキストを入力する。直近触った記憶があるものは、ページ一覧から探すこともあるが、そうした場合を除けば、ほぼ検索バーから情報を探す。適当な語句を入れるだけで、目的の情報が見つかる快感は、一度覚えると病みつきになる。

一方、WorkFlowyで項目を探す場合は、高い確率で目視で探す。というか、ほとんど100%だったかもしれない。

目視で探せるようにするためには、適切に構造化されている必要がある。「どこに何があるか」を自分で把握する必要があるのだ(この逆をついているのがScrapboxだ→Scrapboxは時間を超越する)。だから、情報をカテゴライズして、そこに項目を配置していくことになる。そのような状態が維持されていれば、目視で探せるし、目視で探せるから目視で探すようになる。言い換えれば、把握している構造があるのに、わざわざ検索を使おうとは思わない。

つまり、構造が行動を要請し、行動が構造を決定し、その循環が習慣を作り上げている。

しかし、WorkFlowyもデジタルツールであり、デジタルツールの三大特権である検索(テキストサーチ)が可能なのだ。求めている項目に含まれるテキストを特定できるなら、検索バーから目的の項目を探すことができる。

その項目がどれだけ深い位置にあっても、どれだけ(スクロール的に)下部にあっても関係がない。検索を使えば、情報へのアクセスは構造から開放される。整理のための構造を無理して作らなくてもよくなる。

これは自明な話だが、しかし、「情報を探すためには、構造を作らないといけない」という思いに囚われていると見えなくなる。今こうしてこの文章を書いている私ですら、ずっとWorkFlowyでは検索を使わずに目視で情報を探していた。その行為に一切の疑問を抱いていなかった。だって、把握している構造があるのに、なぜわざわざ検索を使うの──こうした意識が膜となり、それ以上の疑義の発生を防いでいた。

これは、きわめてアナログ的な発想でもある(なぜならアナログではそもそもテキストサーチができないから)。

デジタルにおいては、検索を使えば項目はどこにあってもいい。アクセスは構造を超越する。そして、シンボリックリンク(インスタンス)を使えば、どのような構造を作っても(あるいは壊しても)、情報の原子性は保持される(→DoMA ver2)。そのとき、新しい使い方が生まれてくる。情報の構造は作るが、しかしその構造に情報を縛りつけることのない使い方が。

その際に重要なのは、ただ一つである。情報の記述を原子的に行うこと(この記事を読み上げて聞いている人向けに補足すると、プリミティブではなくアトミックということだ)。

その情報を思い出すときに、「あれ」という粒度で思い出せること。キーワードhogehogeで検索したときに何か見つかるだろう的な曖昧模糊とした「検索」ではなく、求めている情報の輪郭は見えているが、その詳細は再現できない場合の「検索」ができるようになること。それが大切だ。

この「あれ」的感覚(→オブジェクト感覚)があれば、キーワードによる検索はうまく機能する。そのためには、ある程度の記述が必要だ。断片的な記述では、テキスト検索でたどり着けない以前に、自分の脳内に「あれ」オブジェクトが生成されない可能性が高い。輪郭線(アウトライン)が描かれないのだ。

イメージしてみよう。もしGoogleがページ単位ではなく、すべてのWebページの一行ごとにインデックスを作り、それを検索結果として返してきたら。きっと、キーワードによる検索結果は地獄になるだろう。今だってそれに近いが、少なくともページという情報をまとめる単位があり、それが「あれ」的感覚を醸成してくれている。それと同じ発想を、自分の情報運用環境にも適用するのだ。

だからこそ、Scrapboxはすべての基本がページとなっている。それはまったくもって正しいのだ。情報が100や200ではなく、数千を超えて保存されるなら、行ごとの情報単位はノイズにしかならない。それらをまとめあげる粒度が必要となる。つまりこれは、情報ツールの運用であると共に、私たちの思考のマネジメントでもある。

以下の動画では、情報運用ツールをidea storageとidea factoryの二つに分けているが、おそらくその視座はきっちり北極星を見つめている。

一つの情報ツールで、すべての情報運用を対応させるのは無理がある。役割に応じて(そして機能を加味して)分担していくのが賢明だ。なぜなら、必要な情報の粒度、検索のやり方、組み合わせて何かを産み出す行為がそれぞれ違っているからだ。だから、idea storageとidea factoryのように「情報を扱う」という一見統合的な概念もいったん分解して捉える必要がある。

その分担が二つで適切かどうかはさておくとして、そのツールを使って何をしたいのか(そのツールに何をさせたいのか)については、しっかり吟味しておく必要があるだろう。ただ情報を貯めておけば、それだけで知的生産が進むことはないし、どのような粒度で情報を保存するかで、それを組み上げたときに何が生まれるのかも異なってくる。

こういう言い方は大仰かもしれないが、私たちはようやくデジタルツールを使った知的生産の篇首に立っているのだろう。アナログに比べて手間が減るといったことではなく、デジタルだからこそ可能な知的生産の技術がこれから奏でられていくはずである。

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