0-知的生産の技術

エンジン付きのグライダーに乗って

外山滋比古さんが亡くなられたというニュースを目にした。

「思考の整理学」外山滋比古さん死去 96歳 | おくやみ | NHKニュース

最初に彼の著作に触れたとき、ロングセラーだという触れ込みだったので、実はまだご存命だということに驚いたのは懐かしい記憶である。その後も、精力的に著作を生み出され、知的生活を満喫しておられたのだろうと想像する。ご冥福をお祈りしたい。

さて、そのロングセラーたる『思考の整理学』には知的生産の技術的に面白い話がわんさかある。ノートを移し替えて使うメタ・ノートの技法は有名だし、「わすれる」や「ひとつではおおすぎる」など、理念からではなく実践からくるノウハウは、いますぐにでも真似したくなるものばかりだ。

しかし、冒頭にある「グライダー」というエッセイは、現代という時代においてよりいっそう重要性を増していると感じる。

「グライダー」の中で、外山さんは人間の能力を二つに大別している。

人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である。両者はひとりの人間の中に同居している。グライダー能力をまったく欠いていては、基本的知識すら習得できない。何も知らないで、独力で飛ぼうとすれば、どんな事故になるかわからない。

グライダー能力は、基本的知識を学ぶ上では大切、そう断った上で、外山さんはこう続ける。

しかし、現実には、グライダー能力が圧倒的で、飛行機能力はまるでなし、という”優秀な”人間がたくさんいることもたしかで、しかも、そういう人も”翔べる”という評価を受けているのである。

つまり、能力が非常に偏っていながら、それでも評価を受けている状態がある、ということだ。

グライダーは静かだし、優美に空を滑空できる。しかし、自らで翔ぶことはできない。新たな問題設定、既存のルールの抜本的な改革、イノベーティブなアクションにはそぐわない。にも関わらず、そうした能力が評価される環境がある。未曾有の事態に対処できるのは、はたしてどちらの能力なのか。

指導者がいて、目標がはっきりしているところではグライダー能力が高く評価されるけれども、新しい文化の創造には飛行機能力が不可欠である。それを学校教育はむしろ抑圧してきた。急にそれをのばそうとすれば、さまざまな困難がともなう。

グライダー能力が無用なわけではない。情報を学び、使い、さまざまな概念装置を取り込んで、この世界に対する理解をあげていくことは、さまざまな場面において有効だろう。しかし、その能力があるだけで高く評価されるのは、少々行き過ぎである。

人はときに獣道を歩かなければいけない場面に遭遇するし、それはつまり指導者もいなければ、目標もはっきりしない状態で、進むべき道を開拓していくタスクをこなさなければいけない、ということだ。仮にグライダー能力しか育っていなければ、そうしたときに、いつわりの「指導者」や「目標」にすがることになる。「ほら、あなたはいま飛行機に乗っているんですよ」と諭されながら、おんぼろのグライダーで滑空しなければならない。さすがにそれは辛いものがある。

自身のグライダー能力が高く、またグライダー能力を高く評価してくれる組織にいて、その組織が自分の生涯ずっと安泰である、という保証があるならば、グライダー戦術でいくのも悪くはないのかもしれない。でも、それはかなり恵まれた環境であろう。どこかの時点で、人はあてのないジャンプをしなければならない。そのための訓練がどこかでは必要だろう。

知的生産の技術も、効率良く情報をさばく技術だと捉えると、それはグライダー能力になる。しかし、自分で問題を発見し、それについて(まだ誰もやったことのない)研究を続けていくための技術だと考えれば、それは飛行機能力となる。

現代は情報化社会で、見事なグライダーがわんさか揃っている。それらを利用すれば知の高速道路を駆け抜けられるだろう。そして、そこにエンジンがついていれば、見事な離陸が見せられるはずだ。落ちるだけのグライダーでもなく、おんぼろ飛行機でもない。エンジン付きのグライダーに乗って。

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