2-社会情報論

唐揚げと価値を計る物差し

料理をするようになった頃は盛んに作っていたのに、最近まったく作らなくなった料理が唐揚げである(もう一つは手作りハンバーグ)。

揚げるだけでも、きちんと中に火が通っているか、焦がさないかを気をつけなければいけないし、下ごしらえの手間もある。それ以上に、調理を終えた後が面倒だ。揚げ物が等しく背負う宿命である。

毎日料理をしている人間からすれば、唐揚げが手抜きだと言われるのは釈然としない思いがある。だったら、冷凍餃子はどうかと言えば、それはまあ手抜きなのかもしれない。しかし、それを言えば、炊飯器でご飯を炊くことだって手抜きを言えば手抜きだ。藁火と釜炊きに比べれば、レンジでチンのご飯と大差がない。

だったら手抜きというのは、技術の浸透性と通念の関係性に過ぎないとなる。いや、そもそも、手抜きで何が悪いのか、という議論もあるだろう。

梅棹忠夫は「妻無用論」(『女と文明』収録)の中で、女性と家事労働を結びつける考えからの離脱を提示している。

けっきょくどうなるというのか。わたしの結論はこうである。封建武士=サラリーマン型の家庭を延長してゆけば、けっきょくはゆきづまる。この方向では、妻は不要になるばかりである。しいて妻の存在意義を見いだそうとつとめればつとめるほど、妻というものは、ますます奇怪な存在、奇怪な精度におちいってゆくだろう。妻の座はゆらいでいるのである。

女性(妻)が家事を担当し、だからこそ家庭には妻が必要であるという論調では、分業化が進み資本主義がさまざまな家事労働を代替してくれる時代においては、家庭の中に女性(妻)の居場所を確立できなくなってしまう。だったらどうすればいいのか。

それは要するに、女が妻であることをやめることだ。あるいは、封建武士=サラリーマン型の妻であることをやめることだ。つまり、たいへんあたりまえの結論だが、女自身が、男を媒介としてないで、自分自身が直接になんらかの生産様式に参加することだ。

極論すれば、家事労働から解放されて、別の仕事を行って社会参加し、「社会的に同質化した男と女の共同生活」を開始せよ、となる。

梅棹は「妻無用論」以外でも「家庭の合理化」(『女と文明』収録)などで、徹底的な家事の合理化を主張している。別の言い方をすれば、現状の家事には合理化の余地がふんだんにあることを指摘している。梅棹からしたら、餃子を食べるのに、30分の準備時間が5分で済むならばそれにこしたことはない、となるだろう。冷凍餃子万歳、というわけである。

この梅棹のまなざしは、短縮される25分という時間に価値を見ているとも言える。妻にあたる女性がその25分を獲得することで、別の社会的な活動に参加できる余地を見出しているわけだ。つまり、「社会的に同質化した男と女の共同生活」へのまなざしがある。逆に言えば、このまなざしが欠落するとき、家事実行者の可処分時間(それはつまり人生とイコールである)が非常に軽んじられてしまう。

話を先に進める前に一つ確認しておくが、これは家事労働に価値がない、という話ではない。重要なのは「家事労働から解放」である。絶対にやらなければならない、という状態から、やるかやらないかを選択できる状態になる、ということだ。もちろん、家事は最終的に誰かがやらなければいけないが、それをサービスとして購入できるなら、そうしても構わない、という状況を作れることが「家事労働からの解放」である。

以上を確認した上で、話を先に進める。タイムラインで、とある番組のワンシーンが画像として流れてきて、「唐揚げは手抜き→実は工程がたくさんあるんですよ→そうはいってもジャンクフードだから手抜き」というテロップの流れを見かけた。この「ジャンクフードだから手抜き」が、たいへん気になった。

ジャンクフードはたしかに安い。それは、高度に資本化(機械化)された労働が背景にあるからだ。「ジャンクフードだから手抜き」という理路は、その資本化がまったく見えていないことになる。これは『武器としての「資本論」』で指摘されている状況そのものだ。

ジャンクフードは安い→安いから手抜き

という発想は、単に料理をしたことがない以上の根深い認識の偏りを感じる。片方では、「手間をかけること」に価値を見出していながら、もう片方では、「手間がかかっていない」ものの価値を見落としている。値段が安い、というそれだけの理由で。何か、出発点とも呼べるべきものが大きく歪んでいるのではないか。

自分がわかる手間しか評価できない、というのは人間にありがちな認知のバイアスであろう。それは、すべての経験を得ることができない有限な人間存在である以上いたしかたない面はある。しかし、価格から逆算して、その価値を算出することしかできないのは、だいぶ(頭の中の物差しの)資本化が進んでいるのではないか。

結局のところ、家事が手抜きで何が悪いのだろうか。手を抜き、時間を作ることに、重大な瑕疵が含まれているのだろうか。それによって、生まれた時間を別の活動に充てられたらまずい理由でもあるのだろうか。

それとも、掛けた手間(ないしは価格)しか、価値を計る物差しを持っていないのだろうか。

これは「苦労することが美徳である」という旧世代的な価値観の名残なのだろうか。それとも、教養という物差しを豊かにしていく営為が剥奪された結果なのだろうか。あるいは、いやおうなく迫ってくる資本主義の侵食なのだろうか。実によくわからない。

夕食の時間に夕食が出てくる。

これだけで一つの達成ではないだろうか。もちろん、その食事が手が込んでいれば嬉しいかもしれない。特別な日ならなおさらだろう。でも、現代において時間はさまざまな価値を持っている。その使い方をただ一通りに限定するのは、さすがに抑圧が過ぎるだろう。

あるいは、手間を掛けることくらいしか価値を生み出す術(すべ)を持っていないと認識しているのだろうか。それではまるで、椅子に座っている時間でしか部下の成果を測れない上司ではないか。もしかしたら、そうしたまなざしが、まるで感染する病のように日本中を駆け巡っているのかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です