0-知的生産の技術

ライフハックのカテゴリー4

さて、前回の続きから行こう。

その1:行動管理(Do)
その2:情報整理(Is)
その3:日常維持(Be)

以上の三軸を起点に考えを進めたいのだが、そもそも私はなぜこのようなカテゴライズを行っているのだろうか。

別段ライフハックを再興(Revival)しようというのではない。そうではなく、再考(Rethink)することで、私たちがどのような対象に管理の手を伸ばそうとしているのか、そしてその手つきがどのようなものだったのかを観察したいのである。

結局のところ、ライフハックという名前が登場する前から、私たちは何かを管理してきたし、ライフハックという名前が退場した後も、私たちは何かを管理していくだろう。表面の波は時節によって大きく動いても、海中ではいつもと変わらずに流れが続いている。

その意味で、私は人々が管理に向ける欲望とそこに宿る工夫が好きなのである。興味・関心のまなざしは、その手つきに向いている。それらが何と呼ばれるのか、現在ブームなのかどうかはまったく興味がない。

ライフハックの前は仕事術が、仕事術の前は知的生産がそうしたラベルを担っていた。そのラベルの変転と共に、対象分野とツールの選択肢も広がっていった。しかし、人がそうした営為に向けるまなざしはほとんど変わっていないはずである。私はそのまざなしをまなざしてみたい。

その1:行動管理(Do)

行動管理の主眼は「何をするのか」である。いわゆるタスク管理がこの代表格だ。

時間管理においても、何時に何をするのかというスケジュールには行動の要素が関わってくるし、習慣化や学習においても、何をするのかという行動要素の管理を抜いて物事を進めることはできない。

一方で、行動管理だけあればいいわけでもない。極めて限られた環境、ないしは特殊な環境で生きているのならともかく、そうでない場合は、「なぜそれをするのか」(何のためにそれをするのか)を考えることが必要だし、また「どのようにそれを行うのか」という視点も欠かせない。

その2:情報整理(Is)

情報整理は、さまざまな「それは何か?」を明らかにする。

まず、この時点で行動管理の「何をするのか」と重なる部分が見えるだろう。つまり「何」が重なっているのである。あるいは、「何」がこの二つを連結している。この点は、「タスク管理は、行動に関する情報を扱う」という表現で補強できるだろう。

基本的にタスク管理は、実際に取れる具体的な行動レベルまで粒度を落とし込むことが必要だが、反面そうすると、それ以外の次元の情報が欠損してしまう。ロボットみたいな生活をしていない限り、それでは心もとない。これがタスク管理の難しさであるし、さまざまなタスク管理が(たとえばGTDが)行動とは別次元の情報(たとえば高度)を管理対象に持つ理由でもある。

また、情報整理は、知的生産においても活躍する。一つには、適切に保存しておくことで必要になったときに即座に取り出せる環境を整えるためであり、ある種の整理によって新しい情報の「切り口」を取り出すためである。二つの「整理」は、同じ言葉が当てられているが意図するものはまったく違っている。その点には注意が必要である。

また、後者のような整理は、行動管理においても効果を発揮する。タスクAとタスクBがあるときに、新しく思いついたタスクCが、AとBを無効化してしまうことがある。あるいは、統合してしまうことがある。ものすごく小さいパラダイムシフトが起きるのだ。

この点も、単に行動レベルのタスクを並べて、それらをすべてこなせばOKとは言えない理由となる。幼稚園生ならば、命じられたことを粛々こなすことが期待される一番上等な達成であろうが、多少なりともクリエイティブな仕事をしているならば、単純作業の繰り返しだけで物事が円滑に進まないことは個人的な体験から言える(天下りなど、そうでない特殊な環境の人もいるかもしれないが)。

ここまでくどくど書いてきた通り、「行動(タスク)管理」と「情報整理」は切り離して考えると、不都合が大きくなる。メモとタスクは、あくまで管理上の便宜的な切り分けであって、それらの根源は同一である。実務レベルの「管理」では、両者は別々になっていても構わないが、それが属するものは共通している認識は持っておいたほうが良いだろう。

その3:日常維持(Be)

上記の二つで、アルゴリズムは設計できる。ただし、目指すべきプログラムの形が明らかになっていれば、である。

「どのようになりたいのか」「何を維持したいのか」という大目標がなければ、上記の管理は不可能である。もちろん、そんなことを改めて考えなくても、タスク管理や情報整理はできる。なぜか。それは、惰性が働くからである。つまり、意識していなくてもそれまで維持していた目標が、目標として機能してくれる。デフォルトの選択肢があるわけだ。

しかし、それ以外の選択が行えないわけではないし、また何も選択していないわけでもない。私たちは、何かを重要と考え、何かを重要でないと考えている。「考えている」という言葉が意識的過ぎるなら「感じている」と言い換えてもよい。そのジャッジメントに従って、私たちは状況を判断し、行動を決定している(もし、すべてのものが等しく重要なら、何も決断はできないはずである)。

よって、この三つ目の項目は「目標設定」のような名前にしたかった。しかし、その呼びかたは、あまりに先入観が強くなってしまう。つまり、「こうありたい(という素晴らしい状態)」をイメージさせすぎてしまうのだ。

実際(意識的にであれ無意識的にであれ)目指している状態がそんなに立派なものとは限らない。ただただ誰かに怒られないで生きたいということかもしれないし、効率性を追求したいということかもしれないし、お金持ちになってお金の心配をしないで生きたいのかもしれない。一般的な基準でいって、そこには貴賎のバリエーションがある。そして、正解と呼べるものはない。

でも、何かしらはあるのだ。その何かしらによって、「管理」の目標や、「整理」の目指す地点が定まってくる。逆に言えば、「管理」がうまくできているかどうかは、その目指す状態に照らさないとわからない。

健康管理でも、健康の状態が定義されることによって、しかるべき行動も決まってくる。運動を少し増やすのか、それとも筋トレをするのか。何を目指すかによって、なすべきことは変わる。そして、どの程度健康でいたいのか(あるいはどんな状態を健康と呼ぶのか)に正解はない。そんなことを他人に決められたら、ただのおせっかいである。

そして、その状態は「一瞬」のものではない。矢印のように、ある指向性を持ったものである。今日はバリバリ効率的に生きたくて、別の人は極力不安を避けて生きたい、ということはない。体調によって取れる選択肢が変わることはあるし、大イベントの発生によって生き方がまるっと変わってしまうことはあるにせよ、だいたいの日は同じ状態を目指している。

だからこそ、「日常維持」なのだ。あるいは「状態維持」と呼び替えてもいい。

どれが適切な呼び方かはまだわからないが、そうしたものに目を向けることも必要となってくる。

というよりも、そうしたものにまで「管理」の手を伸ばそうとしているのが現代であり、個人の時代であると言えるだろう。与えられた運命を、生まれや育ちを絶対的な制約として、そのもとで「管理」していくのではなく、生き方やその方向性そのものも「管理」しようとすること。

おそらくその力が強くなりすぎると、私たちはバランスを壊してしまう。自分の中にある「自」が強くなりすぎてしまう。自が自を管理する循環の中で、まるでスピーカーのハウリングのように「自分の声」が強くなりすぎる。

その声は、ときに自己否定にも響くし、傲慢さにも響く。どちらも同じコインの裏表である。

さいごに

よって私は、日常維持(ないしは状態維持)へのまなざしを基調としながら、その他の領域へも手を伸ばしていきたい。

そうすることで、たとえば「作業の効率化」一つとっても、実はそれは複雑な問題であることが見えてくるだろう。

(つづく)

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