0-知的生産の技術

ライフハックのカテゴリー5

狭く考えるならば、ライフハッカーとは同一の指向性を持つ人たちの集合であろう。そして、ライフハッカーが選択する方法をライフハックと定義するならば、ライフハックもまた同一の指向性を有するはずである。

しかし、この推論はどこまで正しいのであろうか。まず第一にライフハッカーは本当に同一の指向性を持つのだろうか。私は、同一の指向性を持つとまでは言えないと思う。せいぜい同一の嗜好性を持つくらいだろう。この言い換えでさえ、まだ危ういところがある。

さらに、だ。ライフハッカーがひねり出した方法を、そうでない人が使うことは十分ありえる。というか、それができないなら一体何のための「ライフハック」なのか。

そう考えれば、ライフハックを用いる人たちは、それぞれにバラバラであり、違った目的を持っていると理解したほうがはるかに現実に近づけるだろう。

目的と独立した方法

前回、以下の三つの柱を確認した。

その1:行動管理(Do)
その2:情報整理(Is)
その3:日常維持(Be)

それぞれが違った目的を持っていることは、「その3:日常維持(Be)」が共通しないことを意味する。言い換えれば、「いかにあるか(いかにありたいか)」が違っているのだ。

ここですさまじく難しい問題が噴出する。その噴火は、希望の灯火でもある。

ある時点まで、ジャンルとしてライフハックに関わることは、「ライフハッカーのようになる」ことを意味していた。つまり、行動管理や情報整理の手つきを真似ることで、「いかにあるか」を複写しようとしていたわけだ。

それが好ましいことだったのかどうかはわからない。人があこがれを駆動力にし、背伸びを経て成長していくことは多々ある。だから、その点は良かったことも多分に含まれているのだろう。

しかし、事態は変わりつつある。

現状、「ライフハック」はライフハッカーとは独立的に存在している。ライフハックは、ライフハッカーに近づくための方法(作法)ではない。「便利な方法」の代表的なラベルに変質した「ライフハック」は、多様な人たちの方法論になっている。

その多様性は祝福されてよいのだが、問題は方法の流通が先走りすぎて、「いかにあるか(いかにありたいか)」の問い立てが喪失している点にある。

かつてはライフハッカーに近づくための方法だったものが、今では何のための方法なのかがわからず、ただ「便利な方法」だとして流通している。

いや、むしろ話は逆なのかもしれない。「いかにあるか(いかにありたいか)」という問いとの向き合いを避けるために、とりあえず「便利な方法」を摂取している。そういう話もありえる。

どちらにせよ、方法は目的と乖離して流通している。無目的に、いやいっそ多目的に。

すでに「いかにあるか(いかにありたいか)」を捉まえている人は、別段問題はない。一つひとつ方法を取り上げて、その感触を確かめていけばいい。

問題は「いかにあるか(いかにありたいか)」が明確でない場合だ。その場合、触れた一つひとつの方法が持つ目的が、使用者に流れ込んでくる。当人にその自覚もないままに。

ときに、無分別な目的がぶつかり合い、一体何をやっているのかわからなくなってしまうことがある。ときに、強烈な方法の思想に反省もないままに飲み込まれてしまうことがある。

これが多様な方法が共存する状況にある問題だ。

しかし、その問題のトレードオフとして、私たちは自分の方法を立ち上げていける可能性を手にしている。

別に、生産性を最大にしなくてもいい。一分一秒を無駄にしないと誓わなくてもいいし、すべての感情をコントロールして仏のように生きなくてもいい。既存の方法が、そうした目的を有していても、私たちはそこから自由でいられる。

これはライフハックに限ったことではない。この社会にある、さまざまなノウハウとの付き合い方に敷延できる話である。

身体・物・技術

もう一点、別の視点からもこの話を補強しておこう。

私たちの「手」は、三つの領域に伸ばしうる。

身体・物・技術だ。

技術とは、方法であり、ハックである。

物は対象でもあり、道具でもある(My New Gear……)。

そして、身体だ。身体には、肉体と精神が含まれる。精神には、理性と本能が含まれ、それぞれの人はその心に歴史を刻んでいる。価値観の違いもそこから生まれる。

共通する部分はもちろんある。なんといっても人間なのだから。しかし、すべてが同じというわけではない。そして、その違っている部分を尊重することが多様性であろう。むりに均一性に染めるのではなく、身体の在り方に添わせること。

物と技術へ、身体から手を伸ばすこと。物と技術に身体を合わせるのではなく。

結局ここでも、「いかにあるか」という話に帰ってくる。それを抜きに、物や方法に言及することはできない。とは言え、それは自己啓発的な「あなたらしさ」の絶対的な尊重ではない。確かにその二つは重なっている部分を持つが、しかしまったく同じではない。むしろ、大きな差異がある。

おそらくその点こそが、ライフハックの──というよりも、自己啓発の文脈に吸い込まれたライフハックの──持つ問題でもあろう。

その点を、次回は検討しよう。

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