0-知的生産の技術

自分が自分を管理すること

セルフ・リファレンス

その1:行動管理(Do)
その2:情報整理(Is)
その3:日常維持(Be)

身体・物・技術(方法)

程度の問題


セルフマネジメントは、自分で自分をマネジメントする行為である。いかにもかっこよい響きだが、その実複雑な要素を含んでいる。

自分で自分をマネジメントするのは、マネジメントの必要があるからだろう。つまり、自分だけではうまく達成できない何かを達成しようという試みである。そして、その管理主体が自分なものがセルフマネジメントである。

しかし、その管理する主体の自分だって、管理対象の自分と同一なのである。その自分はやっぱりマネジメントの必要性を持っている。つまり、管理を行おうとする自分にも管理が必要なはずなのだ。しかし、これでは無限後退に陥ってしまう。

だから私たちは、セルフマネジメントを行おうと決意したそのとき、管理主体の自分をそれが可能な存在だと思い描く。表現を変えれば、セルフマネジメントを行おうと思った瞬間に、自己が二つに分裂し、片方がメガネをかけてびしっとしたスーツを身に纏ったやり手教師な存在へと変身するわけだ。

たとえば、あなたが『ストレスフリーの整理術』を読むとき、「よし、この管理をすれば自分はもっとうまくできる」と考えるだろう。そのとき、決して「この管理自体をうまく続けられるだろうか」とは思わないはずである(経験を積んでいる人は除く)。むしろ、その管理はやり手教師のように完璧にこなせると感じるだろう。

自己が他者化される。

しかし、その変身の魔法は長くは続かない。教師だって家に帰ったら、ごく普通の人間で、なんなら奥さんに怒られ、子どもに嫌われているかもしれない。変身が解けた自分は、やっぱり管理が必要な存在に戻る。

自己が自己に吸収される。

克己心とは、この吸収に抗う力のことである。それが何に起因しているのかはわからないが、人によってはそれが他者よりも長く続く人はいるだろう。そういう人は、ノウハウを必要としないし、ないしバカにするかもしれないが、私たち凡人はその話を真に受けてはいけない。自己は、いつしか自己に吸収されるのである。管理しようとする主体が、管理されなければいけない対象へと戻る。それがナチュラルな在り方である。

これはセルフマネジメントに関わらず、独学など、自分で何かを行わなければならないこと全般に含まれている要素である。この点を無視してセルフほにゃららを考えることは実際的ではない。最初分かれた「私」は、いつしか一つに戻るのである。

程度の問題へ

しかし、以上の見方は一方で極めて「ゼロイチ」である。

つまり、自己が綺麗に二分し、片方が完璧な指導者として機能している状態と、自己が単一になりあらゆる管理から遠い場所にある、という二つの状態しか想定できていない。

が、もちろんそんな単純な状態遷移を行うわけではない。そこにつけ入る隙がある。

自己の状態や管理の強度を「程度の問題」として捉えるとき、はじめて循環構造を抜け出す手がかりが手に入るのだ。

そしてそれは、「Beの不完全性」を受け入れることでもある。

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