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Beの不完全性を受け入れる

ライフハック

セルフ・リファレンス

その1:行動管理(Do)
その2:情報整理(Is)
その3:日常維持(Be)

身体・物・技術(方法)

自己管理の課題


すべては不完全である

この世界に完全なものはない。完全なものはイデアの中にしかない。あるいは、神の視点こそが完全なものだ。我々凡庸な人間には決して手が届くことはない。

よって、行動は常に不完全である。「できること」と「できないこと」があるし、「できること」も常に100%可能とは限らない。ときどきできること、ごく稀にできることなどが発生する。ごく普通の話だ。

情報もまた、完全ではない。信憑性や確実性は情報それ自身では不完全性を含むし、その体系的な整理も完全にはできない。可能なのは、暫定的で断定的な在り方である。

そして、「Be」だ。

人間が不完全であるから、その人間が望む「こうありたい」も不完全である。つまり、自分に可能な「こうありたい」を望んでいるかどうかの保証はないし、「こうありたい」が永続的に固定できるわけでもない。そして、「こうありたい」という状態になったところで、幸福が保証されているわけでもない。

拙著『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』で、「タスク管理不完全性定理」という概念を提出したが、人間が不完全であることを受け入れるならば、同様に「Beの不完全さ」も受け入れることになる。

ここで重要なのは、不完全であるからそれは廃棄すべきだ、とはならないことである。もしそうなら、私たちは数学という学問を棄却しなければならない。それはあまりにもバカげた(あるいは突飛な)結論であろう。

そもそも、この世界には完全なものなどないのだから、不完全さをすべて廃棄するならば、私たちは生そのものを否定しなければならない。逆に言えば、生きていくとは不完全さを付き合うことを意味する。それは、物事を程度の問題として捉えるということだ。

不完全だからダメだと白黒思考でケリを(あるいはケチを)つけるのではなく、どの程度の不完全さなら許容できて、それがどこまでいけば許容できなくなるのかを見極めることだ。つまり、判断を仮固定はしても、止めずに継続していくことだ。なぜなら、そうして下される判断もまた不完全であり、継続的な観測のもとに置く必要があるからである。

継続性の重要さ

上で再び「継続=習慣」が登場した。

習慣は、日常の行動にレバレッジをかけるために活躍するが、それ以上に定期的な監視・メンテナンスといった状態維持において活躍する。というか、それらは習慣化されなければ何も意味がない。たったひとりの強盗を追っ払ったからといって、門番がその役目を終えるわけではない。

また、先ほども述べたが、ある時点の決定がたとえ不完全であっても、継続的に監視していくことで、その結果を受けて決定を修正することができるようになる。それこそが、私たち人類が作り上げてきた民主主義という制度の根幹であり、死刑という制度が抱えてしまう決定的な危うさの裏返しでもある。

人は間違う。しかし、間違いを正せるなら、少しはマシになる。

民主主義という制度は、大衆の意見=過半数が絶対に「正しい」という理屈で成立するわけではない。政治を委託した者の選択が間違っていると感じたときに、選び直せることこそが肝にある。逆に、独裁政治は、独裁者もまた人間であり決定的に間違えることがある点において危険なのだ。99の政策が人々を幸福に導いても、たった一つ、押してはいけないスイッチを押すだけですべてがひっくり返ってしまう。

そうしたことを、極力起こさないように作られたのが数々の制度である。逆に言えば、そうした制度は、ときに人間は間違ってしまうという不完全さを受け入れたものなのだ。

目を曇らせないでおく

話がギューンと飛んでしまったが、ようするに「人は間違える存在である」というごく当たり前のポイントがここでの要点である。

ある種のノウハウ本は、超人的ないしは超越的な視点から「なんでもできる人」という気持ちをエンハンスするが、それ「人は間違える存在である」という視点を曇らせてしまう。それは、極めて重要な問題である。むしろ、すべての問題の根源と言えるかもしれない。

彼らはたしかに、本の序盤では不完全なあなたを確認させる。そして、このノウハウさえ使えばその不完全さから抜け出せると説く。それはレトリックではありつつも、有害なレトリックである。私たちは不完全さから抜け出すことはできないし、そうできるなどと思い上がってはいけない。

そのような歪んだ考え方は、「完璧になれない自分」への否定性となり、不完全な人間(つまりすべての人間)への攻撃性となって立ち現れる。

意志の発露

逆に、不完全なのだから何一つ為すことができない、というのも歪んだ考えである。そんなに人間は非力な存在ではない(原始的な社会と現代文明を比較すれば自明である)。人は、力を束ね、情報を綴り、思いを他者に伝えることができる。そうした行為が持つ全体的な指向性は「意志」と呼ばれる。

その意志もまた完全ではないが、しかし何かを為すことができる(私からすれば、完全ではないからこそ何かを為せるのだがそれはさておき)。部分的であれ、部品的であれ、小さな一歩を踏み出すことができる。

やっと話がセルフマネジメントに返ってきたが、結局自己が自己を管理することも不完全ではあるが、部分的には可能なのである。というか、部分的にしか可能ではなく、あとはそれをどう効果を発揮(ないし持続)させることができるかが、メインテーマとなってくるわけだ。

そしてこれは、セルフマネジメントにべったりとつっくいてくる「主体性」の問題とも関わってくる。

(つづく)

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