0-知的生産の技術

ハックに潜む主体性

セルフ・リファレンス

その1:行動管理(Do)
その2:情報整理(Is)
その3:日常維持(Be)

身体・物・技術(方法)

自己管理の課題(不完全性)


ハッキングとは何か

主体性について考える前に「ハッキング」について考えよう。

ハッキング – Wikipedia

ハッキング (英語: Hacking、別名: ハック、hack) とは、コンピュータの隅々までを熟知した者が行うハードウェア・ソフトウェアのエンジニアリングを広範に意味する言葉である。他人のコンピューターに不正に侵入するなどの行為がハッキングと呼ばれる場合もあるが、これは正式にはクラッキングと呼ぶ。本来ハッキングという言葉はエンジニアリング(リバースエンジニアリング)という行為そのものを指す用語であり、悪意・害意を持った行為に限定されるものではない。

いくつか気になる点がある。まとめておこう。

・ハッキングとはコンピュータの隅々までを熟知した者が行う行為である
・ハッキングとは本来エンジニアリング(リバースエンジニアリング)という行為を指す
・逸脱した介入はクラッキングと呼び区別されうる

言葉をスライドさせれば、ライフハッカーとは人間(ないし自分)を熟知した者が行う行為である。この観点に立てば、以前定義した「ライフハック」を使う人であれば、誰でも「ライフハッカー」と呼べる、という考えは改める必要がある。人間(ないし自分)を熟知していないものは、どれだけライフハックとして提示されるテクニックを用いようとも、ライフハッカーではない。

これは定義だけの、つまり言葉遊びの問題ではない。が、そこに踏み込むのは後回しにして話を続けよう。

ハッキングとは、エンジニアリング(リバースエンジニアリング)である。では、エンジニアリング(リバースエンジニアリング)とは何だろうか。単純に訳せば工学(逆行工学)ということだ。つまり、原理が分かっているものを組み合わせて何かの道具を作り(あるいは改造し)目的を達成したり、あるいはすでにあるものを解析して、そこから原理を調査する行為全般を指す。それを人生=日々=人に適応するのがライフハックである。

そのような行為のなかで、悪意を持って行われる介入は、ライフクラッキングと呼ばれうる。ある動作原理を、自己の研鑽に使うこともできるし、他者の誘導に用いることもできるときに、後者を意図的に行うのがライフクラッキングである。自己啓発セミナーなどによく見られるが、そこまで強いものでなくても私たちの日常には軽度ライフクラッキングが満ちあふれている。

ここに主体性が絡んでくる。

ハックの主体性

言うまでもなく、ライフハックは「主体的」な行為である。リバースエンジニアリングが特にそうだが、主体性な目的意識が欠如しているところに、ハッキングは存在しない。

何かを為そうとする意志のあるところに、ハックは生まれる。まずはそう言っていいだろう。

ツールを使う。不満なところがある。それを作り替える。面白そうな機械がある。それを分解して動作を突き止める。目的を持ち、行動する主体があってこそ発生する出来事である。

むしろ、道具を(ひいては制度を)自分に合うように作り替える行為(カスタマイズ〜ハッキング)全般に主体性が宿っている。「自分に合うように」という判定技術があり、それが自己だからである。

その自己の尊重は、西洋的な個人主義と見事に合致する。「私」がうまく使えるように、作用を為すのであるからして、最上の価値は「私」に置かれていることは疑いようがない。

つまり、ライフハック的活動とは、十全に主体性を発揮する行為だと言える。ここで、自己啓発的文脈が融合する。『7つの習慣』が提示する最初の習慣が「Be Proactive」(主体的である)であることは、改めて確認するまでもない。自己の確立、自己の発揮、自己の実現は、もっとも基礎的なエレメントなのである。

ちなみに、7つの習慣は7つ全体で一つの環を為しており、それらをHolisticに捉える必要がある。個々の要素だけを(たとえば重要・緊急マトリックスだけを)取り上げて不足を指摘してもほぼ意味はない。7つの習慣それぞれがどのように調和的に機能するかをもって、言及する必要がある点だけはここに付言しておく。

不完全な主体性と民主主義

さて、ライフハックは主体的な行為なわけだが、その主体性(Be)は不完全であることは前回確認した。

ここで一気に話を広げよう。主体性とは、不完全なのである。主体性だけが不完全さから逃れられるわけがない。人間を出発点にしている以上、そこで発揮される主体性も不完全である。少なくとも、完全さは保証されていない。

よって、主体性を発揮することを単純に礼賛している言説は、基本的に誤りである。というか、非常に危うい。多くの偉業が主体性を発揮することで成し遂げられたのと同様に、すさまじい愚業や悪行もまた主体性の発揮の結果ではないだろうか。そう考えれば、安直な礼賛はしにくくなる。

ときどき、為政者に向かって「力強いメッセージ」とか「行動力」を求める声を耳にするが、それがどれほど危ういのかを考慮しているのだろうか。民主主義の遅さとは、決定的な間違いを回避するための仕組みである。たった一人の強いメッセージだけで国のすべてが動いてしまうなら、それはもうビッグブラザーの世界であろう。

それが何であれ、単一の動力/価値観に全権委任するのは危険である。それは国レベルでも、個人の主体レベルでも同じだ。

かといって、ここでも「だったら、主体性なんてすべて捨て去ってしまおう」とゼロイチの問題にはしたくない。あくまでそれを程度の問題として留めたい。

そこでもう一度政治について考えを巡らせる。主体性の単純な礼賛が、独裁政権と類似にあるならば、逆に、民主主義の個人版を考えればいいのではないか。

残念ながら、民主主義が政治における最高のシステムでないことは多くの人たちが言及している。ただ、これまで存在したものよりはマシだというにすぎない。よって、個人版の民主主義が確立されたとしても、それが完璧完全であることは期待できない。すべての問題を解決してくれたりもしないし、我々を悟りへと導いてくれたりもしない。が、何もないよりはマシである。

そして、我々という存在が完全でない以上、それを支えるシステムも完全である必要はなく、むしろ完全でない方が好ましいと言える。少なくとも、その方が付き合いやすくはあるだろう。

この点においても、既存のタスク管理システムがあまりに「完全」であることが、私にはうさんくさく思える。人間がこんなに不完全なのに、システムの方がそんなに完全であって、私たちに寄り添えるのだろうか。ぴったりフィットした服というよりも、がちがちに身を固める金属の鎧のような感じを受ける。たしかに防御力は上がるだろうが、動きは鈍るし、体力も消費しそうだ。

おそらくそれが必要な戦場があるのだろう。そればかりは否定しがたい。ただし、それがデフォルトであり、その他の選択は存在しない、という考えは却下したい。世界にはさまざまな戦場があり、戦場でない場所もたくさんあるのだから。

(つづく)

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