4-僕らの生存戦略

もしかしたら僕たちが忘れていたかもしれないこと

楽しむことについての断章

Enjoy!

10年前のブログを僕たちは楽しんでいた。でも、今はどうだろうか。

いやにあくせくしていたり、何かの重圧を感じてはいないだろうか。ただただワクワクに突き動かされるままに記事を書けているだろうか。

0013 : ゆうびんやさんと目標設定について語り合う会 – Radio89 – Beck‘s Hacks Letter

原点回帰というと陳腐ですが、10年前の自分が寝食を忘れて熱量の高い記事を書いていて、それを出したら多くの人が楽しんでくれていた原体験を先日書いた記事「読書メモをScrapboxに残していくために構築した仕組みとワークフロー 」で思い出したので、それに向けて熱量傾けて記事を書いていきたいなと思った次第です。

熱量が熱量を呼び込む。

楽しそうな場所に人は集まる。

そこに人がいないなら、そこには楽しさがないのかもしれない。熱量が拡散しているのかもしれない。

ライフハックだってそうである。

それが実際的にどんな効果を生むかはさてき、僕たちはその探究を楽しんでいたのではないか。それがいつか「当たり前」になり、日常に埋もれていってしまったのではないか。悲しい雑草化現象。

一方で、「生産性向上」のような空虚な目標に突き動かされたライフハックは、いずれ限界を迎えるのは目に見えていた。「何のための生産性向上なのか」という問いに向き合っていなかったからだ。というよりも、そういう問いとの直接的対峙を避けるために、懸命に生産性向上を目指していたのかもしれない。なんにせよ、そこには楽しさはない。

そんな場所に人が集まってくるはずは、もちろんない。

僕たちは間違った看板を立て、間違った道しるべを辿ってきたのかもしれない。

「AのためにHogehogeをする」

そのような標語に基づいて、Xを行うこと。真なる目的はそちらだったのかもしれない。つまり、あたかも「Aのために」が目的であるかのように、Xを行うこと。そんなねじれた目的関係があったのかもしれない。

たとえば、「生産性を高めるためにライフハックする」という一種のパズルゲームにチャレンジしていたとしたら、「生産性を高める」ことではなく、そうしたパズルゲームに取り組む楽しさが真なる目的だったということだ。

どうだろうか。

「楽しさ」が欠けたものを、僕たちは求めていたのだろうか。あるいは、今も求めているのだろうか。

もちろん、楽しければなんでもいいという無責任な態度は許容できない。かといって、楽しさを一切合切無視して、功利を確立すればそれで事足りるかと言えば、きわめて閉塞的な場所に留まることになるのではないかという心配は残る。

ブログやライフハックなどの話題が一段落し、それらを総括した上でそろそろ二週目を始めようという段になって、僕たちがもう一度思い出すべきは、「楽しさ」にあるのではないかと思う。

キャッチーに「楽しくなければ、ブログではない」なんて言ってみてもいいが、それはたぶん単なるレトリックを超えて、そこにある行為の本質に触れているのではないか、そんな気もしている。

だから、しばらくはさまざまなまとめをいったん離れて「楽しさ」や「楽しむ」ことについて考えてみたい。よろしければ、お付き合いいただき感想やコメントなどをいただければ幸いである。

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