Sharing is Power!

「楽しさ」を作るということ

前回の記事(来るべきライフハックと楽化主義)で、「楽化主義」をぶちあげて、来るべきライフハックという大風呂敷を広げておいた。なんといっても、風呂敷を広げるのは楽しいのだ。だからそれを続けることにする。

「楽しむ」ことに親しい言葉はいくつもある。「ゲーム」がそうであるし「遊び」もそうであろう。一方で、実は「苦労」や「手間」も楽しむに親しいことに気がつく。楽(らく)は大切だが、すべてがあまりにも楽に進むとき、人はそこに楽しさを憶えない。幸福であるかもしれないが、楽しくはないのだ。ずっと無敵状態で進んでいけるアクションゲームを考えてみればよい。楽しいのは最初の数分だけで、あとはどんな敵が出てきても死ぬことはなく、その平坦さに楽しさは吸い込まれてしまう。苦労すれば即座に楽しいわけではないが、そこに含まれているプロセスには、私たちの「楽しさ」を喚起する要素があることは間違いないし、それを効果的に使っていくこともできるだろう。

もう一つ、決して見逃せないのが「作る」ことの楽しさだ。何かを作ること、創造することには多重で複雑な楽しさがある。何を作るのかによっても違いは出てくるだろうが、それはそれとして「作る」ことには根源的でありながら、しかし人間的(≒文化的)な楽しさが織り込まれている。

この点は(ライフハッカーではない)Lifehackerたちの多くがプログラマーであることも参照できるだろう。彼らは、自らの効率化の方法を自分で「作り上げて」いた。他者の方法を参照にしても、そこから「自分の方法」を創造していた。その結果として、効率化などの成果を手にしていただろうが、それ以上に「自分の方法」を作っていく楽しさも十分にあっただろう。

逆に、方法を示されて、その通りにやるべしという形でライフハックに取り組むとき、そこには安心感はあるのかもしれないが、何かを作っていく楽しさは失われてしまっている。楽化主義としては是非とも避けたい状態である。楽しむために「自分の方法」を作り、またその行為そのものを楽しむこと。この点が肝要ではないか。

そもそも再帰性があるのだ。「作る」ことに楽しみがあり、その楽しみを「作れる」ならば、私たちは円環の中をグルグルと回っていける。私たちは決して終わることのない(しかし段階的な中断はある)、創造のダンスを堪能することができる。

だから、楽化主義では作ること・創造することを重視する。それが(editableである以上に)programmableであることを尊重する。方法を押しつけることは、押しつけられた人から「楽しみ可能性」を奪う点で評価できない。どれだけそれが「能率的」であり、効果が保証されていても、楽化主義的には落第である。

むろん上級者であれば、押し付けられた方法の中にすら「楽しみ」を見出すことは可能だし、それが可能であることはprogrammableであることをも意味する。認知の世界では、何もかもが上書き可能なのだ。しかし、そこに至るには慣れが必要だろうし、そこまでいけばあらゆる配慮の外においていいはずだ。逆に言えば、ある配慮はそこに至っていない存在に向けて調整されるべきだろう。そして、その調整すらをも楽しんでいくのが、言うまでもなく楽化主義者である。

■ ■ ■

楽化主義者になるための条件はたった一つである。「楽しみ」は作れる、と信じること。世界は与えられたままに存在するのではなく、(まるでアクセルワールドの登場人物がそうするように)シンイで上書きできると強く思えること。それだけだ。

カントによれば私たちは物自体を直接認識することはできない。しかし、私たちは種としての共通的な認識を持っている。客観性はその共通認識によって立ち上がる。反論しようのない立派な論立てだ。しかし、私たちは種としての共通性を持ちながら、個としての相違点も持っている。そこにハックする余地があるのではないか。

私たちは物自体を直接認識しているわけではなく、そしてその認識が変わり得るのならば、私たちは世界の受容を変化させることができる。何もスピリチュアルな話ではない。楽しもうという意志とそれに基づく行為が、実際に楽しさを生み出すのだ。

世界は変えられなくても、世界の意味づけは変えていける。積極的に、意味を創造していける。もし、その行為を肯定し、そこにわずかでも「楽しさ」の香りを感じられるならば、再帰のループがあなたをどこまででも連れていってくれるだろう。

もちろん無限大の「楽しさ」が手に入るわけではない(そんなものはどこにもない)。単に、いつでも──まるで空間から突然光子が生まれ、そして消えていくように──楽しさを作り出せるようになる、というだけだ。

そして、ゲームの例でわかるように、それは「思うまま」に世界を制御することではない。そうなったら、私たちはあっというまに「楽しさ」を失ってしまうだろう。思うようにならないものがあり、そこに「思い」を反映させるために、何かを「作る」こと。この絶対に到達しない道行きが、私たちの「楽しさ」を支えるのである。

この点が楽化主義に向けられるだろう批判──楽しければなんでもいいのか──に対する反論となるだろう。「なんでもいい」のは結局楽しくなくなるである。

楽しさは有限性と常にセットになっている。

これはとても大切なことであるので、たびたび触れることになるだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です