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「自分の道具」を作る楽しさ

「作る」ことは楽しい。

万有引力ばりの真理とは思われないので、上記に同意できないかたはブラウザバックが良いだろう。いちいち説得するつもりはない。

さて、何かを作るのは楽しいとして、その中でも「自分の道具」を作る楽しさは格別である。

第一にそれは、便利さにつながる。何せ自分で使う道具を作るわけで、使い勝手の良いものが期待できるだろう。そのワクワク感すらすでに楽しい。

第二にそれは、調整できる。どのような道具でもいきなりベストフィットというわけにはいかない。微調整が必要である。その調整が、「自分の道具」では楽にできる。特に、デジタルツールならば顕著である。改善のサイクルを低コストで回していける。

第三にそれは、安全である。安全というか、気楽というべきかもしれない。私が自分で使うツールのショートカットをCommand + S から Command + E に変えたところで困る人は誰もいない。道具作りに失敗しても、その影響は自分だけに留まる。「みんなの道具」だとなかなかこうはいかないことを考えれば、この道具作りがいかに安心に楽しめるかがわかるだろう。

では、「自分の道具」を作るとは、どのようなことだろうか。

一番簡単なのは、「リストに名前を与えること」である。

普段使っているリストを一つ取り上げて、そこに自分なりの名前を与えてみて欲しい。どんな名前を与えるのも自由だが、あらかじめそのリストに与えられていた名前をそのままコピーするだけは禁止する。つまり、もし「デイリータスクリスト」という手法を真似してそのリストを使い始めたならば、「デイリータスクリスト」以外の名前ならば何でも構わない、というわけだ。

もちろん、「ポチ」とかでもいいわけだがあまりしっくりは来ないだろう。名づけとは、しっくりさを手元に引き寄せる行為である。そしてそれは、そのツールの役割(機能)とは何かを検討し、そのイメージを一つのキーワードに託すことである。

タスク管理における専門ツールではなく、アウトライナーなどの汎用的情報マニピュレーターを扱う場合は、この作業が多くの場面で発生する。日付や書籍の情報を扱う項目の「名前」は安直につけられるが、リストのようなものは「このリストは何か?」を問わなければならない。言うまでもなく、この問いはGTDの骨幹をなす問いでもある。

その問いに触れるとき、なんとなく使っていたツールの「使い方」にフォーカスが当たる。そのツールの「道具性」に注意が向き、その中で特に自分が重視したいものを選り分けることなる。それが名づけという行為だ。

この名づけは、極めて双方向的に機能する。すなわち、名前がその機能を定義し、その機能が名前を定義するのだ。ここにはボトムアップとトップダウンの両方の働きがある。「このリストは、こういう使い方をしているから、こういう名前にしよう」という認識と、「このリストは、こういう名前がついているから、こういう使い方をしてよう」という認識が重ね合わせで発生するのだ。

この理解は極めて重要である。まったく静止しているように見ても、それは向かい合う二つの力の合成の結果なのだ。だから、どちらかが少しでも大きくなったら、変更が発生する。つまりここでは静的と動的な状態が重ね合わされている。そして、そのバランスの「くずれ」が新たな名づけを要請するのである。

リストに名前を与えただけで、そのリストは「自分の道具」となる。私の一部となるのだ。もちろん、その量はたいしたものではない。微々たるものであろう。とは言え、それは間違いなく私に取り込まれた=私が拡張したのである。

その瞬間まで存在していなかった道具を作り出すことができ、またそれは自己の拡張である。

そのような感覚が、「自分の道具」を作る楽しさである。

デジタルノートのタイトルに絵文字を付けるのも、Notionのページにcoverを付けるのでも同様だ。まったくランダムに付けるのでないかぎり、私たちは何か「しっくり」くるものを選ぼうとする。それはメタファーを通した「このノートとは何か?」という問いかけへの解答なのである。

現代を生きる私たちは、「道具」を与えられることに慣れ親しんできた。それが効率的であったし、また現実的な限界でもあったのだろう。一人一人に最適な「教科書」や「手帳」や「ノート」を配るためのコストは想像を絶する。だからそれを望むのは諦めておこう。

一方で、デジタルツールでは言葉通り「私の道具」を作ることができる。それは何もプログラミングしましょう、という話に限らず(できた方が良いとは思うが)、自分の考えと用途と要請に応じた「道具」の使い方が可能になったということだ。それぞれのリストに、タグに、ノートブックに、自分なりの名前を当たられるようになった。

それは、世界の創造とほとんど等価である。

大げさだろうと思うだろうか。しかし、リストに名前を付けることも、小説を書くことも、そう大きな違いはないと私は感じる。そこにある知的作用の根源は同一ではないだろうか。単に、通り抜ける井戸が違うだけで。

しかし、先ほども書いたように、「自分の道具」作りは他者とは独立的に行えるという点で、極めて閉じた楽しみ方ができる。小説ならWebにアップして罵倒されるリスクを含むが、自分のリストにどんな名前を与えるのかはそうしたリスクからはフリーな行為である。

その意味で、あらゆる作ることには楽しさがあるが、楽化主義への一歩は「自分の道具」作りから始めるのがよいのではないか。少なくとも、私はそれをお勧めしたい。小さく作り始めて、少しずつ改良していく楽しさを身近に味わうには、この道がもっとも手軽で安全だからだ。

以前紹介したDoMAというノウハウ・モデルも基本的には同じ考え方に準拠していて、これまでのノウハウ界隈が示してこなかった道の魅力がこのルートにはあるはずである。

ともかくリストであれ、ノートであれ、普段自分が使うツールに(他の人が付けたのではない)名前を与えてみよう。それが一歩目になるはずだ。

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